春雨の夜
作者:永井荷風 約6分で読めます
雨戸がしまったので午後から降出した雨の音は殆ど聞えなくなった。 女中の知らせに老夫婦は八畳の茶の間へ来て、膳の前に置かれた座布団に坐ると二人ともに言合したように身のまわりを見廻した。 昨日まで――昨日の夕飯の時までこの八畳の茶の間にはもう一脚膳が出されてあったのだ。然し今夜はもうその膳は出されていない。寅雄という一番末の男の子は今朝米国へ留学に行った。 去年の秋三番目の女の清子が嫁に行くまで此の八畳の茶の間は時折さわがしいほど賑であった。寅雄と清子とは日頃仲がよかったので却てよく喧嘩をした。 清子が嫁に行くその前の年に生来病身であった二番目の娘が流行感冒で死んだ。その時から既に茶の間の膳は一つ減っていた訳であるが、その折には老夫婦はそれほど淋しい気にもならなかった。勿論娘の死を悲しみはしたものの其の悲しみは月日と共に諦のつく悲しみであった。また容易に他の事にまぎらされる悲しみであった。何故というに年中薬を飲みながら二十を越すまで生きていたのが、両親には寧ろ不思議に思われた位であったからである。家に残った三番目の清子と末子の寅雄が元気のいい笑声はいつも家中を賑にする力があったからである。 老人は静に箸を取って、「寅雄も今頃は船の食堂で食事をしているだろう。」 「雨が降出しましたけれど、船はいかがで御在ましょう。」 「いや三月になれば航海は穏かだ。わしが始めて洋行した時分の事を思えば船は三層倍も大きいし、心配する事はない。」 「寅雄の洋行ですっかり忘れて居たので御在ますが、あの今日はお父様の御命日で御在ました。」 「三月十日……そうだったな。」 「あなたが寅雄を送りにいらしった後で気がついたので御在ます。明日お墓へ行って参りましょう。」 「何年になるかな十三回忌の法事をしたのが先一昨年だったな。」 「お母様の方が来年丁度十年目だと思いました。」 「それでは其の中法事をしよう。」と老人は吸物を啜って、「この白魚は大変うまい。おかわりを貰おうか。」 「どうぞ。沢山御在ますから。」と老妻は給仕に坐っている女中を見返って、「掻き廻すと中のものが崩れますから丁寧によそっておいでなさい。」 「先代も晩年には白魚と豆腐がお好きであったな。老人になると皆そういうものかな。」 老人はその亡き父と母とが静な燈火の下に現在の自分と同じように物食うて居られた時の様を思い浮べた。亡
底本:「麻布襍記 ――附・自選荷風百句」中公文庫、中央公論新社
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