老ハイデルベルヒ

作者:太宰治 約15分で読めます

老ハイデルベルヒを縦書きで読む(Textfall)

八年まえの事でありました。当時、私は極めて懶惰な帝国大学生でありました。一夏を、東海道三島の宿で過したことがあります。五十円を故郷の姉から、これが最後だと言って、やっと送って戴き、私は学生鞄に着更の浴衣やらシャツやらを詰め込み、それを持ってふらと、下宿を立ち出で、そのまま汽車に乗りこめばよかったものを、方角を間違え、馴染みのおでんやにとびこみました。其処には友達が三人来合わせて居ました。やあ、やあ、めかして何処へ行くのだと、既に酔っぱらっている友人達は、私をからかいました。私は気弱く狼狽して、いや何処ということもないんだけど、君たちも、行かないかね、と心にも無い勧誘がふいと口から辷り出て、それからは騎虎の勢で、僕にね、五十円あるんだ、故郷の姉から貰ったのさ、これから、みんなで旅行に出ようよ、なに、仕度なんか要らない、そのままでいいじゃないか、行こう、行こう、とやけくそになり、しぶる友人達を引張るようにして連れ出してしまいました。あとは、どうなることか、私自身にさえわかりませんでした。あの頃は私も、随分、呑気なところのある子供でした。世の中も亦、私達を呑気に甘えさせてくれていました。私は、三島に行って小説を書こうと思って居たのでした。三島には高部佐吉さんという、私より二つ年下の青年が酒屋を開いて居たのです。佐吉さんの兄さんは沼津で大きい造酒屋を営み、佐吉さんは其の家の末っ子で、私とふとした事から知合いになり、私も同様に末弟であるし、また同様に早くから父に死なれている身の上なので、佐吉さんとは、何かと話が合うのでした。佐吉さんの兄さんとは私も逢ったことがあり、なかなか太っ腹の佳い方だし、佐吉さんは家中の愛を独占して居るくせに、それでも何かと不平が多い様で、家を飛出し、東京の私の下宿へ、にこにこ笑ってやって来た事もありました。さまざま駄々をこねて居たようですが、どうにか落ち附き、三島の町はずれに小ぢんまりした家を持ち、兄さんの家の酒樽を店に並べ、酒の小売を始めたのです。二十歳の妹さんと二人で住んで居ました。私は、其の家へ行くつもりであったのです。佐吉さんから、手紙で様子を聞いているだけで、まだ其の家を見た事も無かったので、行ってみて具合が悪いようだったらすぐ帰ろう、具合がいいようだったら一夏置いて貰って、小説を一篇書こう、そう思って居たのでありましたが、心ならずも三人の

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底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房
入力:柴田卓治 校正:小林繁雄
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card238.html)