恋を恋する人

作者:国木田独歩 約14分で読めます

恋を恋する人を縦書きで読む(Textfall)

一

秋の初の空は一片の雲もなく晴て、佳い景色である。青年二人は日光の直射を松の大木の蔭によけて、山芝の上に寝転んで、一人は遠く相模灘を眺め、一人は読書している。場所は伊豆と相模の国境にある某温泉である。  渓流の音が遠く聞ゆるけれど、二人の耳には入らない。甲の心は書中に奪われ、乙は何事か深く思考に沈んでいる。  暫時すると、甲は書籍を草の上に投げ出して、伸をして、大欠をして、 「最早宿へ帰ろうか。」 「うん」と応たぎり、乙は見向きもしない。すると甲は巻煙草を出して、 「オイ君、燐寸を借せ。」 「うん」と出してやる、そして自分も煙草を出して、甲乙共、のどかに喫煙いだした。 「君はどう思う、縁とは何ぞやと言われたら?」  と思考に沈んでいた乙が静かに問うた。 「左様サね、僕は忘れて了った。……何とか言ったッけ。」と甲は書籍を拾い上げて、何気なく答える。  乙は其を横目で見て、 「まさか水力電気論の中には説明してあるまいよ。」 「無いとも限らん。」 「あるなら、その内捜して置いてくれ給え。」 「よろしい。」  甲乙は無言で煙草を喫っている。甲は書籍を拈繰って故意と何か捜している風を見せていたが、 「有ったよ。」 「ふん。」 「真実に有ったよ。」 「教えてくれ給え。」 「実はやッと思い出したのだ。円とは……何だッたけナ……円とは無限に多数なる正多角形とか何とか言ッたッけ。」と、真面目である。 「馬鹿!」 「何んで?」 「大馬鹿!」 「君よりは少しばかり多智な積りでいたが。」 「僕の聞いたのは其円じゃアないんだ。縁だ。」 「だから円だろう。」 「イヤこれは僕が悪かった、君に向って発すべき問ではなかったかも知れない。まア静かに聞き給え、僕の問うたのは……」 「最も活動する自然力を支配する人間は最も冷静だから安心し給え。」 「豪いよ。」 「勿論! そこで君のいう所のエンとは?」 「帰ろうじゃアないか。帰宿って夕飯の時、ゆるゆる論ずる事にしよう。」 「サア帰ろう!」と甲は水力電気論を懐中に押こんだ。  かくて仲善き甲乙の青年は、名ばかり公園の丘を下りて温泉宿へ帰る。日は西に傾いて渓の東の山々は目映ゆきばかり輝いている。まだ炎熱いので甲乙は閉口しながら渓流に沿うた道を上流の方へのぼると、右側の箱根細工を売る店先に一人の男が往来を背にして腰をかけ、品物を手にして店の女主人の談話して

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底本:「日本の短編小説[明治・大正]」潮文庫、潮出版社
入力:鈴木厚司 校正:鈴木厚司
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000038/card327.html)