城のある町にて

作者:梶井基次郎 約30分で読めます

城のある町にてを縦書きで読む(Textfall)

ある午後

「高いとこの眺めは、アアッ(と咳をして)また格段でごわすな」  片手に洋傘、片手に扇子と日本手拭を持っている。頭が奇麗に禿げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるで栓をはめたように見える。――そんな老人が朗らかにそう言い捨てたまま峻の脇を歩いて行った。言っておいてこちらを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向けたままで、さもやれやれといったふうに石垣のはなのベンチへ腰をかけた。――  町を外れてまだ二里ほどの間は平坦な緑。I湾の濃い藍が、それのかなたに拡がっている。裾のぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠っている。―― 「ああ、そうですな」少し間誤つきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残っているような気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそぐわなかった。なんの拘りもしらないようなその老人に対する好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先ほどの静かな展望のなかへ吸い込まれていった。――風がすこし吹いて、午後であった。

一つには、可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨から、峻はまだ五七日を出ない頃の家を出てこの地の姉の家へやって来た。  ぼんやりしていて、それが他所の子の泣声だと気がつくまで、死んだ妹の声の気持がしていた。 「誰だ。暑いのに泣かせたりなんぞして」  そんなことまで思っている。  彼女がこと切れた時よりも、火葬場での時よりも、変わった土地へ来てするこんな経験の方に「失った」という思いは強く刻まれた。 「たくさんの虫が、一匹の死にかけている虫の周囲に集まって、悲しんだり泣いたりしている」と友人に書いたような、彼女の死の前後の苦しい経験がやっと薄い面紗のあちらに感ぜられるようになったのもこの土地へ来てからであった。そしてその思いにも落ちつき、新しい周囲にも心が馴染んで来るにしたがって、峻には珍しく静かな心持がやって来るようになった。いつも都会に住み慣れ、ことに最近は心の休む隙もなかった後で、彼はなおさらこの静けさの中でうやうやしくなった。道を歩くのにもできるだけ疲れないように心掛ける。棘一つ立てないようにしよう。指一本詰めないようにしよう。ほんの些細なことがその日の幸福を左右する。――迷信に近いほどそんなことが思われた。そして旱の多かった夏にも雨が一度来

続きを読む — 城のある町にて|Textfall

底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社
入力:j.utiyama 校正:野口英司
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card429.html)