悟浄歎異 ―沙門悟浄の手記―
作者:中島敦 約21分で読めます
悟浄歎異 ―沙門悟浄の手記―を縦書きで読む(Textfall)
昼餉ののち、師父が道ばたの松の樹の下でしばらく憩うておられる間、悟空は八戒を近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。 「やってみろ!」と悟空が言う。「竜になりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんな棄ててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」 「よし!」と八戒は眼を閉じ、印を結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりの青大将が現われた。そばで見ていた俺は思わず吹出してしまった。 「ばか! 青大将にしかなれないのか!」と悟空が叱った。青大将が消えて八戒が現われた。「だめだよ、俺は。まったくどうしてかな?」と八戒は面目なげに鼻を鳴らした。 「だめだめ。てんで気持が凝らないんじゃないか、お前は。もう一度やってみろ。いいか。真剣に、かけ値なしの真剣になって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持だけになって、お前というものが消えてしまえばいいんだ。」 よし、もう一度と八戒は印を結ぶ。今度は前と違って奇怪なものが現われた。錦蛇には違いないが、小さな前肢が生えていて、大蜥蜴のようでもある。しかし、腹部は八戒自身に似てブヨブヨ膨れており、短い前肢で二、三歩匍うと、なんとも言えない無恰好さであった。俺はまたゲラゲラ笑えてきた。 「もういい。もういい。止めろ!」と悟空が怒鳴る。頭を掻き掻き八戒が現われる。
悟空。お前の竜になりたいという気持が、まだまだ突きつめていないからだ。だからだめなんだ。 八戒。そんなことはない。これほど一生懸命に、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにひたむきに。 悟空。お前にそれができないということが、つまり、お前の気持の統一がまだ成っていないということになるんだ。 八戒。そりゃひどいよ。それは結果論じゃないか。 悟空。なるほどね。結果からだけ見て原因を批判することは、けっして最上のやり方じゃないさ。しかし、この世では、どうやらそれがいちばん実際的に確かな方法のようだぜ。今のお前の場合なんか、明らかにそうだからな。
悟空によれば、変化の法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持が、この上なく純粋に、この上なく強烈であれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその
続きを読む — 悟浄歎異 ―沙門悟浄の手記―|Textfall
底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫、角川書店
入力:佐野良二 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card617.html)