安井夫人

作者:森鴎外 約19分で読めます

安井夫人を縦書きで読む(Textfall)

「仲平さんはえらくなりなさるだろう」という評判と同時に、「仲平さんは不男だ」という蔭言が、清武一郷に伝えられている。  仲平の父は日向国宮崎郡清武村に二段八畝ほどの宅地があって、そこに三棟の家を建てて住んでいる。財産としては、宅地を少し離れた所に田畑を持っていて、年来家で漢学を人の子弟に教えるかたわら、耕作をやめずにいたのである。しかし仲平の父は、三十八のとき江戸へ修行に出て、中一年おいて、四十のとき帰国してから、だんだん飫肥藩で任用せられるようになったので、今では田畑の大部分を小作人に作らせることにしている。  仲平は二男である。兄文治が九つ、自分が六つのとき、父は兄弟を残して江戸へ立ったのである。父が江戸から帰った後、兄弟の背丈が伸びてからは、二人とも毎朝書物を懐中して畑打ちに出た。そしてよその人が煙草休みをする間、二人は読書に耽った。  父がはじめて藩の教授にせられたころのことである。十七八の文治と十四五の仲平とが、例の畑打ちに通うと、道で行き逢う人が、皆言い合わせたように二人を見較べて、連れがあれば連れに何事をかささやいた。背の高い、色の白い、目鼻立ちの立派な兄文治と、背の低い、色の黒い、片目の弟仲平とが、いかにも不吊合いな一対に見えたからである。兄弟同時にした疱瘡が、兄は軽く、弟は重く、弟は大痘痕になって、あまつさえ右の目がつぶれた。父も小さいとき疱瘡をして片目になっているのに、また仲平が同じ片羽になったのを思えば、「偶然」というものも残酷なものだと言うほかない。  仲平は兄と一しょに歩くのをつらく思った。そこで朝は少し早目に食事を済ませて、一足さきに出、晩は少し居残って為事をして、一足遅れて帰ってみた。しかし行き逢う人が自分の方を見て、連れとささやくことはやまなかった。そればかりではない。兄と一しょに歩くときよりも、行き逢う人の態度はよほど不遠慮になって、ささやく声も常より高く、中には声をかけるものさえある。 「見い。きょうは猿がひとりで行くぜ」 「猿が本を読むから妙だ」 「なに。猿の方が猿引きよりはよく読むそうな」 「お猿さん。きょうは猿引きはどうしましたな」  交通の狭い土地で、行き逢う人は大抵識り合った中であった。仲平はひとりで歩いてみて、二つの発明をした。一つは自分がこれまで兄の庇護のもとに立っていながら、それを悟らなかったということである。今一

続きを読む — 安井夫人|Textfall

底本:「日本の文学 3 森鴎外(二)」中央公論社
入力:真先芳秋 校正:日隈美代子
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card696.html)