二百十日

作者:夏目漱石 約51分で読めます

二百十日を縦書きで読む(Textfall)

一

ぶらりと両手を垂げたまま、圭さんがどこからか帰って来る。 「どこへ行ったね」 「ちょっと、町を歩行いて来た」 「何か観るものがあるかい」 「寺が一軒あった」 「それから」 「銀杏の樹が一本、門前にあった」 「それから」 「銀杏の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」 「這入って見たかい」 「やめて来た」 「そのほかに何もないかね」 「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」 「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」 「なるほどそうだね」と圭さん、首を捻る。圭さんは時々妙な事に感心する。しばらくして、捻ねった首を真直にして、圭さんがこう云った。 「それから鍛冶屋の前で、馬の沓を替えるところを見て来たが実に巧みなものだね」 「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそんなに珍しいかい」 「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」 「幾通りあるかな」 「あてて見たまえ」 「あてなくっても好いから教えるさ」 「何でも七つばかりある」 「そんなにあるかい。何と何だい」 「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがす鑿と、鑿を敲く槌と、それから爪を削る小刀と、爪を刳る妙なものと、それから……」 「それから何があるかい」 「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいには驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ」 「爪だもの。人間だって、平気で爪を剪るじゃないか」 「人間はそうだが馬だぜ、君」 「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど呑気だよ」 「呑気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗だね。ぴちぴち火花が出る」 「出るさ、東京の真中でも出る」 「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ」  初秋の日脚は、うそ寒く、遠い国の方へ傾いて、淋しい山里の空気が、心細い夕暮れを促がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。 「聞えるだろう」と圭さんが云う。 「うん」と碌さんは答えたぎり黙然としている。隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。 「そこで、その、相手が竹刀を落したんだあね。すると、その、ちょいと、小手

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底本:「夏目漱石全集3」ちくま文庫、筑摩書房
入力:柴田卓治 校正:伊藤時也
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card751.html)