半七捕物帳 62 歩兵の髪切り
作者:岡本綺堂 約36分で読めます
半七捕物帳 62 歩兵の髪切りを縦書きで読む(Textfall)
一
前回には極月十三日の訪問記をかいたが、十二月十四日についても、一つの思い出がある。江戸以来、歳の市の始まりは深川八幡で、それが十四、十五の両日であることは、わたしも子どもの時から知っていたが、一度もその実況を観たことが無いので、天気のいいのを幸いに、俄かに思い立って深川へ足を向けた。 今と違って、明治時代の富岡門前町の往来はあまり広くない。その両側に露店が列んでいるので、車止めになりそうな混雑である。市商人は大かた境内に店を出しているのであるが、それでも往来にまでこぼれ出して、そこにも此処にも縁起物を売っている。それをうかうか眺めながら行きかかると、路ばたの理髪店から老人が出て来た。 「やあ」 それは半七老人であった。赤坂に住んでいる老人が深川まで髪を刈りに来るのかと、わたしも少し驚いていると、それを察したように、彼は笑った。 「山の手の者が川向うまで頭を刈りに来る。わたくしのように閑人でなければ出来ない芸ですね。いや、わたくしだって始終ここらまで来る訳じゃあありません。ついでがある時に寄るんですよ」 ここの理髪店の主人は、そのむかし神田に床を持っていて、半七老人とは江戸以来の馴染であるので、ここらへ来たときには立ち寄って、鋏の音を聴きながら昔話をする。それも一つの楽しみであると、老人は説明した。 「きょうも八幡様の市へ来たので、その足ついでに寄ったのですが……。あなたは何処へ……」 「わたしも市を観に来たんですが……」 「はは、今の若い方にしちゃあお珍らしい。帰りは洲崎へでもお廻りですか」と、老人は笑いながら云った。 「いや、そんな元気はありません」と、わたしも笑った。 二人は話しながら連れ立って境内にはいった。老人は八幡の神前でうやうやしく礼拝していた。そこらを一巡して再び往来へ出ると、老人はどこかで午飯を食おうと云い出した。宮川の鰻もきょうは混雑しているであろうから、冬木の蕎麦にしようと、誘われるままにゆくと、わたしは冬木弁天の境内に連れ込まれた。 名月や池をめぐりて夜もすがら 例の芭蕉の句碑の立っている所である。蕎麦屋と云っても、池にむかった座敷へ通されて、老人が注文の椀盛や刺身や蝦の鬼がら焼などが運ばれた。池のみぎわには蘆か芒が枯れ残っていて、どこやらで雁の声がきこえた。 「静かですね」と、わたしは云った。 「ここらもだいぶ
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底本:「時代推理小説 半七捕物帳(五)」光文社文庫、光文社
入力:tatsuki 校正:小林繁雄
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card972.html)