不審庵

作者:太宰治 約13分で読めます

不審庵を縦書きで読む(Textfall)

拝啓。暑中の御見舞いを兼ね、いささか老生日頃の愚衷など可申述候。老生すこしく思うところ有之、近来ふたたび茶道の稽古にふけり居り候。ふたたび、とは、唐突にしていかにも虚飾の言の如く思召し、れいの御賢明の苦笑など漏し給わんと察せられ候も、何をか隠し申すべき、われ幼少の頃より茶道を好み、実父孫左衛門殿より手ほどきを受け、この道を伝授せらるる事数年に及び申候えども、悲しい哉、わが性鈍にしてその真趣を究る能わず、しかのみならず、わが一挙手一投足はなはだ粗野にして見苦しく、われも実父も共に呆れ、孫左衛門殿逝去の後は、われその道を好むと雖も指南を乞うべき方便を知らず、なおまた身辺に世俗の雑用ようやく繁く、心ならずも次第にこの道より遠ざかり、父祖伝来の茶道具をも、ぽつりぽつりと売払い、いまは全く茶道と絶縁の浅ましき境涯と相成申候ところ、近来すこしく深き所感も有之候まま、まことに数十年振りにて、ひそかに茶道の独習を試み、いささかこの道の妙訣を感得仕り申候ものの如き実情に御座候。  それ覆載の間、朝野の別を問わず、人皆、各自の天職に心力を労すればまたその労を慰むるの娯楽なかるべからざるは、いかにも本然の理と被存候。而して人間の娯楽にはすこしく風流の趣向、または高尚の工夫なくんば、かの下等動物などの、もの食いて喉を鳴らすの図とさも似たる浅ましき風情と相成果申すべく、すなわち各人その好む所に従い、或いは詩歌管絃、或いは囲碁挿花、謡曲舞踏などさまざまの趣向をこらすは、これ万物の霊長たる所以と愚案じ申次第に御座候。然りと雖も相互に於ける身分の貴賤、貧富の隔壁を超越仕り真に朋友としての交誼を親密ならしめ、しかも起居の礼を失わず談話の節を紊さず、質素を旨とし驕奢を排し、飲食もまた度に適して主客共に清雅の和楽を尽すものは、じつに茶道に如くはなかるべしと被存候。往昔、兵馬倥※武門勇を競い、風流まったく廃せられし時と雖も、ひとり茶道のみは残りて存し、よく英雄の心をやわらげ、昨日は仇讐相視るの間も茶道の徳に依りて今日は兄弟相親むの交りを致せしもの少しとせずとやら聞及申候。まことに茶道は最も遜譲の徳を貴び、かつは豪奢の風を制するを以て、いやしくもこの道を解すれば、おのれを慎んで人に驕らず永く朋友の交誼を保たしめ、また酒色に耽りて一身を誤り一家を破るの憂いも無く、このゆえに月卿雲客または武将の志高き者は挙っ

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底本:「太宰治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
入力:柴田卓治 校正:夏海
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card1583.html)