七階の住人
作者:宮本百合子 約11分で読めます
「お早う」 ミセス・コムプスンが入って来た。 「今日は御部屋ですか」 彼女は、亜麻色の髪を古風な束髪にし、雑使婦そっくりな藍縞の服に長い前垂をしめている。 「お早う……」 伸子は、丁度襟をつけかけていた衣服を両腕ですくいあげながら寝台から立上った。 「私、ここにいちゃあ邪魔?」 「いいえ、結構ですとも! 静に奇麗にうまくしてあげますですよ」 ミセス・コムプスンは、雑巾や水を部屋に入れた。小さい敷物を先ず廊下に出した。それから、細々したものが一杯載っている化粧台の上を片づけ始めた。 化粧着を肩にかけたぎりなので、伸子は縫物をもってまた坐った。彼女の場処から、あちら向きのミセス・コムプスンの上半身がそっくり鏡に映って見えた。同じ鏡に、すぐ横の窓枠の端と、勉強机の一部が矢張り映っている。三月の晴々した午前十時であった。寄宿舎にもこんな時があるかと驚くほど建物じゅう森としていた。伸子は、ちょいちょいミセス・コムプスンの方を見た。皺だらけの顔なのだが、頬骨の上のところが、まるで艶々と子供のように赤い。その赤い頬と唇に絶えず微笑の影を浮べ、背の高く平べったい藍縞服の上半身を、お婆さんらしく右に捩って反りかえらせ、楽しい仕事でもしているように働いている。―― 伸子が寄宿舎に来てから三月経っていた。がミセス・コムプスンが部屋を掃除してくれる時に落ち合ったのはそれが始めてであった。彼女は、暫して訊いた。 「――敷物なんかも貴女の受け持ちなの? ミセス・コムプスン」 「No, dear 敷物は一まとめにして、廊下を掃除する人が叩くんですよ。あれは力がいりましてね――私みたいにお婆さんになってはもう駄目、駄目ですよ」 ミセス・コムプスンは、眼尻に深い皺を作って笑った。伸子は、彼女の云う廊下掃除受持の働女というのをまだ一度も見たことがなかった。伸子が会ったこともなくて、而もこの尨大な寄宿舎の生活、ひいて彼女の日常生活の必要を満している働き人は他にも沢山あった。例えば、毎週火曜日の夜、扉の外に出して置く洗濯袋、それを翌朝八時か九時に伸子が目を醒し洗面に出る迄に運び去る人。何時頃来るのか、男か女か、子供か大人か、伸子はちっとも知らなかった。然し、土曜日には間違いなくそれ等の洗物が、再び知らない人の手で寝台の上に置かれている。そういえば、第一階の大広間の、あのいつも白い大理石の床は
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:原田頌子
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card1957.html)