街
作者:宮本百合子 約32分で読めます
一
一九一七年に、世界は一つの新しい伝説を得た。「ロシア革命」。当時、そのロシアに住んでいた者は、物心づいた子供から、老耄の一つ手前に達した年寄りまで、それぞれ一生の逸話を拾った。逸話は、いかにもこの国風な復活祭の卵のように色つきで、或る者のは白、或るもののは緑、或る者のは真赤だ。 レオニード・グレゴリウィッチ・ジェルテルスキーはやっと商業学校を出たばかりの青年であった。彼の父親は小さい町の工業家で、革命の時、理由あってか、多くの間違いのうちの一つの間違いによってか殺されて、河の氷の下へ突込まれた。ジェルテルスキーは、それから、母親を五日鶏の箱へ詰めた経験、真直自分の額に向けられた拳銃の筒口を張り飛したので、銃玉が二月の樺の木の幹へ穴をあけた陰気な光景などを、彼の逸話として得た。 一九二九年、ジェルテルスキーは彼の東京で二度目の冬を迎えた。勤めている或る週刊新聞社は、赤坂の電車通りに面して建っていた。水色のペンキで羽目板を塗り、白で枠を取った二階建ての粗末なバラックであった。階下が発送部で、階上が編輯室だ。誰かが少し無遠慮に階段を下りると、室じゅうが震えるその二階の一つの机、一台のタイプライターを、ジェルテルスキーは全力をつくして手に入れたのであった。 薄曇りの午後、強い風が吹くごとに煙幕のような砂塵が往来に立った。窓硝子がガタガタ鳴った。洋袴のポケットへ両手を突こみ、社長が窓から外を眺めていた。 「フッ! 何という埃だ。――こんなやつあニガリ撒いた位じゃ利かないもんかな」 「――…………」 誰も返事しなかった。編輯員の一人は、片手で髭を引っぱりながら熱心に露文和訳をしていた。向いの机で、邦字新聞から経済記事を他の一人が抄訳している。黒ビロードのルパシカを着たジェルテルスキーは、最も窓に近い卓子で露字新聞を読んでいた。彼は、社長の独言から、何という埃だ。利かないもんかな、などと云う言葉を理解した。小心なジェルテルスキーはその場合、一番彼に近くいる位置の関係から云っても、何とか一言親しみある言葉を与えたかった。然し、彼には適当な日本語が見つからない。――つまり彼も黙って、タイプライターを打ち始めた。 「最近地方図書館は著しき発達を遂げた。現在に於て地方図書館の数は六千五百を数えられている」 外の往来をトラックが通るひどい音がし、ブルルル新
底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:米田進
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card1970.html)