日々の映り
作者:宮本百合子 約14分で読めます
魚屋だの屑金買入れ屋のごたついた店だののある横丁から、新しく開通した電車通りへ出てみると、その大通りはいかにも一昨日電車がとおりはじめたばかりのところらしく、広くしん閑としていて、通りの向い側は市内に珍しい雑木林がある。右手の遠方に終点があって、市場らしい広告幟も遙かに見えるが、左の方は坂になっていて、今は電車も通っていないその坂の先は目を遮るものもなく白雲の浮いている大空へ消えこんでいる。明るい寂しさのみちた午近くの街すじである。 ほんの僅かの通行人にまじって、ひろ子はその大通りを、向い側の小路へ曲って行った。 ところが、その路は塵芥籠がいくつもつみ重ねておいてある不潔な狭い空地のところで三つまたになっていた。土地に馴れない者らしく、そして不知案内な顔つきで一寸佇んでいたひろ子は、ふっと思いついたという調子で、そこに草箒をつかっている割烹着のお神さんに声をかけた。 「ちょっとうかがいますが――この辺にアパートありますでしょうか」 「さああることはありますがね。なんていうんです?」 「それをつい忘れたんですけれど。――こっちの道を」 と、ひろ子は道の奥に欅の梢が群らだって見えている一筋の街へ心をひかれて、 「先へ行ったところにないでしょうか」 「ああ、そんなら雑司ケ谷荘だ。じゃあね」 と、そこで教えられたままに行ってみると、その道へは目かくしをうった水色ペンキの横が向っていて、雑司ケ谷荘というアパートの入口は、角をぐるりとまわったところにあった。 往来と同じ高さのなりに薄っ暗い建物のつき当りまでつづいている三和土の入口のとっつきに、土足のままの上り下りによごされた階段がそばだっていて、明るい戸外に馴れた目で入ったばかりではそのあたりのドアの様子さえよく見えない感じであった。白シャツにカーキ・ズボン、板うら草履の男が、バケツを下げて出て来た。ひろ子が空室をきくと、 「ここ当分うごく人はありますまいよ」 元は職人ででもあったような、さらりとした口ぶりでその管理人は返事した。 「ここはやすいからね。新学期でどっとふさがりましたからね。やすい代りに、台所が共同なんでね」 少し笑い顔になって、その不便もあっさり認めている調子である。 そのアパートのすぐわきが、雑司ケ谷墓地の裏口で、どこか植木屋の庭のはいりくちめいた様子の小門があいていた。それがちっとも陰気でなく
底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:原田頌子
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2001.html)