夜の若葉
作者:宮本百合子 約20分で読めます
一
桃子の座席から二列ばかり先が、ちょうどその二階座席へ通じる入り口の階段になっていた。もう開演時間の迫っている今は、後から後から込んでいかにも音楽会らしい色彩の溢れたおとなしい活気の漲った混雑がそのあたりに渦巻いている。プログラムと書類入れの鞄とを膝の上に重ね、そこへ両腕をたがい違いにのせた寛いだ姿態で、桃子は目の下の賑やかな光景を、それもこれから聴こうとする音楽の添えものとしてたのしむ眼付で眺めていた。桃子のところからは正面に、入り口を囲んでめぐらされている手摺が見えた。下の大廊下から絶え間なく流れ込む人々は、一段一段のぼって来て、先ず頭から先にその手摺のところに現れ、ついで肩、帯、やがてすっかりの姿となって、時には互によけ合って却ってぶつかったりもしながら通路を夫々の座席に動いてゆく。いろんなきもの。いろんな帯。いろんな髪の形。夫々の趣向をひそめたそれらの色と動きとを巻きこんで、熱心に調子を合わせているバスの絃の響、笛の顫音、ヴァイオリンの入り乱れた音などが期待を誘う雰囲気をかもして、しめられている舞台のカーテンの彼方から場内いっぱい漂っている。 空いていた桃子の右隣りに譜をプログラムに持ち添えた青年が来た。桃子はスカートをまとめてすこし体を肱かけからずらし、自然な動作のつづきで柔かく顎をひきながら襟に插している渋い色の匂い菫をかいだ。勤めからまっすぐまわって来る桃子は、小さいけれども生きたその花を襟にさして、一つの夜を自分なりの心持よさに飾っているのであった。 ふと、目の下の木手摺のところへ現れた一人の男の姿が桃子の視線をとらえた。横を向いた顔でそれがたしかに順助だと判ると、やっぱり来たのねという気持を率直な表情にあらわして、桃子は順助がこっちを振向くのを待った。学校時代からこの交響楽団の演奏会だけは来ている従妹の席を、やはり音楽好きの順助はよく知っているのであった。今も順助は、持ち前の何となし寛闊なところのある身ごなしで帽子を脱ぐと、頭をめぐらして、高いところから自分を見守っている桃子の顔をなんなく見つけ、爽かな笑顔でもって頷いた。親愛のこころそのままの様子でそれに応えている桃子から順助へと、隣席の青年が青春の敏感さで目をうつした。順助のとりつくろわない全体に何かただようものがあって、それは男の目をひくものをもっているのであった。
底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:原田頌子
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2007.html)