渋谷家の始祖

作者:宮本百合子 約1時間50分で読めます

渋谷家の始祖を縦書きで読む(Textfall)

一

正隆が、愈々六月に農科大学を卒業して、帰京するという報知を受取った、佐々未亡人の悦びは、殆ど何人の想像をも、許さないほどのものであった。  当時六十歳だった彼女は、正隆からの手紙を読みおわると、まるで愛人の来訪でも知らされた少女のように、ポーッと頬を赧らめて、我知らず黒天鵞絨の座布団から立上った。  立ち上りはしたものの、次の運動を何も予想していなかった未亡人は、皺の深い口元に、羞らうような微笑を漂べて、そっとまた元の座になおると、後の壁の方へ振向いて、 「しげや、しげや、しげやはいるかい」 と、お気に入りの小間使いを呼びながら、手を鳴らした。彼女は早速、この輝やかしい報知を、親戚中に触れ廻して、雨のような祝辞を浴びたくなって来たのである。  完く、佐々未亡人の正隆に対する愛は、その熱烈さに正比例して、特異なものであった。彼女の、鍾愛を越えて、偏愛に陥ったとさえ思われる愛は、何かの折に親類の者どもが寄るとさわると、一度は欠かさず皆の話題に上るほど、激しいものであったのである。  勿論、それには正隆が末子であるということが、相当の口実にはなっておったろう。けれども、彼には、単に末っ子だというよりも、より以上の追憶が負わされていた。それは、彼の誕生そのものが既に、未亡人にとっては望外に近いものであったということと、彼の生命と、良人の生命とが、引換えに手渡しされたような形になった、ということとである。  二十年ほども昔に、独りの長男を育て上げて以来、母親となる希望は、殆ど絶えたように見えた彼女が、孤独な、頼りない未来を予想して、自ら心を寒くしていた時に、思いも掛けず胎宿った正隆は、その祝福された誕生後、僅か半年で、まだ五十にもならなかった父親を失ってしまったのである。  その時、四十ばかりだった佐々未亡人は、この突然な良人の死に逢って、殆ど食餌も喉に通らないほど、悲歎に暮れると同時に、正隆は、愛すべき良人の最後の記念として、自分に与えられた者だ、という感銘を、烙印のように魂に刻みつけた。彼女は、尊ぶべき良人が、彼の死後自分を襲う寂寥を思いやって、この望むことさえ不可能に見えた嬰児を、自分に遺して行ってくれたのだという感謝と追慕とに泣き咽びながら、空虚になった胸の上に、一人の痩せて虚弱な男の子を抱き捧げたのである。  この感傷が、未亡人の心には、不可

続きを読む — 渋谷家の始祖|Textfall

底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2016.html)