宵(一幕)
作者:宮本百合子 約14分で読めます
人 物 中西 良三(小児科医) 三十四歳 同 やす子(良三の妻) 二十三歳 同 つや子(彼等の幼児) 二つ たみ(子守女) 十七歳 書生
所 東京市内 静かな山の手
時 現代 或る秋の宵
幕開く
中西良三宅。 茶の間。
庭に面した八畳の座敷、廻縁付。障子は悉く開け放されている。 正面上手の壁には、瀟洒な秋草を描いた銀地の色紙をかけ、下に、桑の茶箪笥。稍々下って配置よく長火鉢や水屋棚が置いてある。 同じく下手は、二枚の襖で奥に通じ、傍に畳んで置いてあるつや子のくるみ袢纏が、鮮やかなメリンス友禅の色を浮上らせて、庭の暗闇と著しい対照をなす。 中西良三、寛いだ黒っぽい平常着、 やす子は、穏やかな束髪、銘仙の着物、羽二重の帯、 二人とも、見物に横顔を見せながら、食卓に向っている。 縁そと上手には、八つ手の植込みのかげに、障子の閉った部屋が見える。
やす子 (少し延び上って、卓子の中央に煮えている寄せ鍋の加減を見る)どう? お加減は。もう少し足しましょうか? 良 三 結構だよ。有難う、お前もおあがりな、まあそう気を揉むなよ。 やす子 (笑う)気なんか揉みゃしませんわ、だけれど、どうかと思って……
二人とも黙って箸を運ぶ、平和な静けさ。突然、
やす子 ああ、忘れていた!(と云いながら良人の顔を見る。)先刻ね、津本さんからお電話が掛りましてよ。 良 三 ほう何だッて? やす子 矢張りいつものお嬢さんのこと。二三日前からどうも工合がよくないから、今夜でも来てくれっておっしゃるの。だけれども、まだお帰りがなかったから、とにかく御用の趣だけは申し伝えます、と云って置きましたわ……(一種の表情)それにしてもまああのお家じゃあ、よくお嬢さんに病気許りさせていらっしゃるのね、先月だってどこか苦情がおありになったんでしょう? 良 三 可哀そうに。まさか病気を「させ」る積りじゃああるまいが――とにかく弱いことは弱いね。 やす子 でも、私あの方のお家を見ると、ただ生れつき弱いからという許りじゃあないように思えますわ。おかあさまなんか、まるで家に落付いていらっしゃらないんですもの。いつだって、熱度の計りようも知らないような女中だか家庭教師だか見たいな人ばかり、電話に出るんですのよ。 良 三 (苦笑)まあいい
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2018.html)