我に叛く

作者:宮本百合子 約49分で読めます

我に叛くを縦書きで読む(Textfall)

電報を受取ると同時に、ゆき子は、不思議に遽しい心持になってきた。  若し彼女が、その朝十時から催される或る職務上責任ある会議に、良人の真木が帰京し得るか否かを、それほど案じていたのなら、当然その報知で安心すべき筈であった。  電文には、昨夜F市の発信で「アスアサ九ジツク」とある。  会議の場所は、東京駅からさほど遠くはなかった。従って、九時に列車が到着するとすれば、定刻に充分に間に合うばかりでなく、若し必要なら衣服を換える位の余裕さえもある。ゆき子が、気を揉む理由は何処にもない訳なのである。――が、彼女は落付けなかった。  今まで森閑と、或はどんよりと鎮っていた心の何処かに、俄の漣が立ち始め、その絶間ない波動が、やがて体中、心じゅう充満して来るような不安が感じられるのである。

一

真木は、市内の或る大学に教鞭を採っている文学士であった。  故郷は、若狭に近い裏日本にある。そこでは、老齢な父親が、長兄の家族と共に、祖先伝来の、殆ど骨董めいた田地を擁して、安穏な余生を送っていた。  平常は忙しく、ゆっくり手紙を書く気分のゆとりすら持たない彼は、丁度学年の更り目にある僅の休暇を利用して、半年振の帰省をしたのである。  始めは、勿論ゆき子も同道するつもりでいた。結婚後、二年と経たない彼女は、未だ一度しか良人の故郷を見たことがない。のみならず仏教が非常に熾なその地方の生活は、一種独特な興味で、ゆき子の心も牽いていた。  東北の或る地方に生父の故郷を持つ関係から、今まで、田舎といえば曠野の中に散在する開墾地ばかりを見て来た彼女にとって、古風な細道や白壁を持ち、村役場の訓示まで、 「時間を励行すべし、仏智に適う」 などという風に書かれる城下村の日常は、全く、珍しかったのである。  また、風景の点からいっても、決して悪い場所ではない。白山山脈の鬱蒼とした起伏や、夕方日が沈むと、五位鷺の鳴く群青色の山峡から夢のように白霧が立ち昇って来る景色などは、日本風な優婉さで、特別彼女の心に強い印象を遺していた。  まして、この度の帰省には、一つの楽しい空想が加っていた。  長年、都会と田舎とに別れ別れの生活をし、親しく老父を慰むる機会を持たなかった真木は、時候のよい今度、父を誘って、何処か閑静な温泉にでも行って、ゆっくり昔語りでもしたいと云っていたのである。  三月が終

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底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2019.html)