貧しき人々の群
作者:宮本百合子 約1時間40分で読めます
序にかえて
C先生。 先生は、あの「小さき泉」の中の、 「師よ、師よ 何度倒れるまで 起き上らねばなりませんか? 七度までですか?」 と云う、弟子の問に対して答えた、師の言葉をお覚えでございますか? 「否! 七を七十乗した程倒れても なお汝は起き上らねばならぬ」 と云われて、起き上り得る弟子の尊さを、この頃私は、しみじみ感じております。 第一、先ず倒れ得る者は強うございます。 倒れるところまで、グン、グンと行きぬける力を、私はどんなに立派な、また有難いものだと思っていることでございましょう。 今度倒れたら、今度こそ、もうこれっきり死んでしまうかもしれない。 が、行かずにはいられない。行かずにはすまされない心。 ほんとうにドシドシと、 ほんとうにドシドシドシドシと、真の「自分の足」で歩き、真の「自分の体」で倒れ、また自ら起き上られる者の偉さは、限り無く畏るべきものではございますまいか。 まだ心の練れていない、臆病な私は、若しや自分が、万一倒れるかもしれないことを怖がって、一尺の歩幅で行くところを、八寸にも七寸にも縮めて、ウジウジと意気地なく、探り足をしいしい歩きはしまいかということを、どれ位恐れているでございましょう。 私は、もう二足踏み出しております。その踏み方は、やがて三度目を出そうとしている今の私にとっては、決して心の踊るように嬉しいものではございませず、またもとより満足なものでは勿論ございません。 けれども、どうでも歩き廻らずにはいられない何かが、自分のうちに生きているのでございます。 たといよし、いかほど笑われようが、くさされようが、私は私の道を、ただ一生懸命に、命の限り進んで行くほかないのでございます。 自分の卑小なことと自分の弱いことに、いつもいつも苦しんでばかりいる私は、一体何度倒れなければならないのか? それは解らないことでございます。 けれども、私はどうぞして倒れ得る者になりとうございます。地響を立てて倒れ得る者になりとうございます。そして、たといどんなに傷はついても、また何か掴んで起き上り、あの広い、あの窮りない大空を仰いで、心から微笑出来ましたとき! その時こそどうぞ先生も、御一緒に心からうなずいて下さいませ。 一九一七年三月十七日 著 者
一
村の南北
底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2025.html)