面積の厚み
作者:宮本百合子 約11分で読めます
或る年の冬が、もう少しで春と入れ換ろうとしていたある朝のことである。 A小学校の、古びた二階建の一番西端れの教室では、もう一ヵ月ほどのうちに義務教育を終ろうとしてい、引き続き入学すべき学校の、試験準備にせわしかった六学年の女生徒が、ざっと五十人許り数学の課業を授けられていた。 しめっぽい柔かな空気が、久し振りで明け渡したたくさんの窓々から快く流れ込んで来て、しんの暖かい日光が、直ぐ窓下に突出ている事務所の屋根瓦から、黒板の面へ穏やかに反射している。 つやつやと塗りたての黒い地に、細くこまかく書かれてある数字が、遠くから眺めると、まるで何かの絣模様のように見えた。 一通り四辺形の面積を求める方法の復習をすませると、先生は、 「解らないところがあったら、何でもよくお訊きなさいよ」 と云いながら、低い背を出来るだけ爪立てて、びっくりするほど黒板の隅の隅の方から、応用問題を書き始めた。一応は仕来り通り質問を求めはしたけれども、何しろこれだけの事なのだもの、尋ねるがものはありませんねえと云う意味が、その声の調子にも態度にも、はっきり表わされていた通り、完く彼女等は一つの質問も持ち合わせてはいなかった。 縦と横とをかければ面積が出る。と云うそれだけのうちで、何を訊ねようにも種が無いので、先生が後を向ききりになると一緒に、今までひっそり閑としていた教室中には、急に小蜂のうなるような囁や、せわしい身じろぎの音が、一しきりサワサワ、サワサワと鳴り渡った。 一番後列の中頃に座っていた、肥ってお出額の女の子も、皆について一息ホッとしたように両手を机の上に休ませながら、彼方向きの先生の尖った髱の先が、薄赤くホヤホヤにほつれて、無理に背のびをしたり、手を上げたりする度に小さく震えるのを、ぼんやりと眺めていた。 そして、考えるともなく面積のことを思っていると、フト何故縦と横とをかけると面積が出、その面積と云うものには厚みが無いと定まっているのかが、非常に不思議に思われて来た。 縦と横とをかけると面積が出ます。 そして、面積には、どんな時にでも厚みはないものです。 先に教えられた時にも、一人ずつ順繰りに繰返して云った時にも、不思議どころか、あんなにも明瞭に解り切っていたその根本が、今急に、あかの他人を見るよりもっともっと親しみのない、殆ど奇怪なことのように感じられて来た
底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:原田頌子
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2028.html)