津軽の虫の巣

作者:宮本百合子 約8分で読めます

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一

朗らかな秋晴れの日である。  津軽の海は紺碧に凪いで、一点の曇りも無い虚空を豊かに照り返えす水の上には、これはまた珍らしく漁舟の片影も無い。  閑静に澄んだ波の面には、微かに動く一二羽の水鳥が、大らかな弧を描いているばかりである。  けれども、若し人がその海岸に立って、遠い彼方に瞳を定めたならばきっとその注意は、遙か水平線の上にポッツリと浮き出して小さい物の影に牽かれるだろう。  影は紛れも無い二艘の船である。  微かながら、それ等の船は、真上の空に舞う水鳥の、翼の白さにも擬う真帆を一杯に張って、静まり返った水面を、我物顔に滑べって来るのが認められる。  小豆粒ほどの影は、次第に大豆ほどとなり、やがては小人の船ほどの大きさになって、耳を澄ますと、微風につれて賑わしい船歌さえ聞えて来る。  この二艘の大船こそ、誰あろうときの大守、十代津軽矩広を乗せて、三馬屋の泊から船出した、長者丸、貞松丸という吉例の手船なのである。  歴代の津軽公は、参勤交代で江戸表への上下には、必らずこの二艘の手船で、津軽の海を超える慣例になっている。  今度も、江戸表から、久しぶりに帰城する矩広を乗せて、二艘の船は悠々と晴天の下に浮んだのである。  御手船が見えたという報告は、今まで深い眠りに入っていたような城下を、一時にハッと目醒ました。  急に騒然と人気立った要所要所にやがて一刻も過ぎた頃、船は恙なく定めの船泊りに着いたのである。  海上無事を知らせる合図の篝が、傾きかけた大空を画って、白上峠の頂上から華々しく燃え上った。  すると、暫らくの間を置いて、それに応える「清八」の狼煙が、南部三馬屋から仄かに立ち昇る。  美くしい火の応答が、燦めく海を隔てて取り交わされる間に、一行は威儀堂々と、上の奥の城へその長い行列を大々しく繰り込むのである。  かようにして、御帰城になる殿様と奥に戻って来る江戸の風聞は、留守居の者共に絶大の期待を与えているのは、言わずもがなのことである。  直接国政とは何の関係も無いいわゆる「女子供」は勿論、正直に言わすれば若士の大多数にとっても、当時彼等の憧憬の的である江戸の土産は、重大な価値を持っている。  まして世は、繁栄はこれが頂上で有ろうという元禄である。  俄に勃興した江戸歌舞伎の、心を嗾る団十郎の妙技、水木辰之助の鎗踊、それに加えてさらに

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底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:原田頌子
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2033.html)