シナーニ書店のベンチ
作者:宮本百合子 約12分で読めます
厳寒で、全市は真白だ。屋根。屋根。その上のアンテナ。すべて凍って白い。大気は、かっちり燦いて市街をとりかこんだ。モスクワ第一大学の建物は黄色だ。 我々は、古本屋の半地下室から出た。『戦争と平和』の絵入本二冊十五ルーブリ。 大学の壁にビラが貼ってある。各劇場の今週間の番組。曲芸師ケファロの横顔―― ほとんど通り過ぎかけて、私は俄に声を出して云った。「園がある、園が」ビラの一つに、「園」という大活字がたしかに見えた―― 「――園? 何さ」 「桜の園じゃない?」 私のロシア語は、一瞬にいくつもの文字を視神経で捕え得るほど、まだ発達してはいないのである。私の日本からの道伴れは、彼女の肩をふってビラの前へ戻って行った。 「本当に――そうだ」 「何処?――大劇場……芸術座じゃあないのね、どうしてだろう」 「これは、特別興行だな。ホラ、たった一日だけ演るんだもの、一時に大勢に観せてしまおうというわけなんだろ」 こんな問答をしている二人の日本女を、皮帽をかぶった少年が傍に立って好奇心を面に表し、眺めている。 私共は芝居広場へ行って見た。我々は久しい前から、このビラの出るのを待っていた。今年のシーズンにチェホフの作は一つも上演されなかった。或る人は、いつか「叔父ワーニャ」を、芸術座で演る筈だと云う。或る人は、いやそれはしないが、桜の園は確定したそうだと云う。私共は何時、何処で、チェホフの何が観られるものか、全然知ることができなかったのであった。 切符売場には、既に幾条も前売切符を買うための人列がうねくっていた。切符はどちらかといえばたかい。二月十三日は私の誕生日なので、私の道伴れは奮発して平土間の第八列目を買った。 上靴の中で足が痛いほど寒かった。街はますます白く、ますます平べったかった。モスクワ労働新聞社の高い窓の一つに午後三時の西日がさして、火のように硝子を燃やした。
大劇場は、ふだんアイダや、サロメや、ボリス・ゴドノフを上演するところだ。月曜日にオペラの俳優達は、彼等の喉を休ませる。そこへ、今日は、モスクワでは珍しい日本女まで混えた大群集が六階の天辺のバルコニーまで、チェホフの「桜の園」を観ようとつめかけた。 棧敷の内張も暗紅色、幾百の座席も暗紅色。その上すべての繰形に金が塗ってあるからけばけばしい、重いバルコニーの迫持の間にあって、重り合った群集の顔は
底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:米田進
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2230.html)