渡り鳥

作者:太宰治 約11分で読めます

渡り鳥を縦書きで読む(Textfall)

おもてには快楽をよそい、心には悩みわずらう。                    ――ダンテ・アリギエリ

晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向って、むらむらぱっと飛び立つ。 「山名先生じゃ、ありませんか?」  呼びかけた一羽の烏は、無帽蓬髪の、ジャンパー姿で、痩せて背の高い青年である。 「そうですが、……」  呼びかけられた烏は中年の、太った紳士である。青年にかわまず、有楽町のほうに向ってどんどん歩きながら、 「あなたは?」 「僕ですか?」  青年は蓬髪を掻き上げて笑い、 「まあ、一介のデリッタンティとでも、……」 「何かご用ですか?」 「ファンなんです。先生の音楽評論のファンなんです。このごろ、あまりお書きにならぬようですね。」 「書いていますよ。」  しまった! と青年は、暗闇の中で口をゆがめる。この青年は、東京の或る大学に籍を有しているのだが、制帽も制服も持っていない。そうして、ジャンパーと、それから間着の背広服を一揃い持っている。肉親からの仕送りがまるで無い様子で、或る時は靴磨きをした事もあり、また或る時は宝くじ売りをした事もあって、この頃は、表看板は或る出版社の編輯の手伝いという事にして、またそれも全くの出鱈目では無いが、裏でちょいちょい闇商売などに参画しているらしいので、ふところは、割にあたたかの模様である。 「音楽は、モオツアルトだけですね。」  お世辞の失敗を取りかえそうとして、山名先生のモオツアルト礼讃の或る小論文を思い出し、おそるおそるひとりごとみたいに呟いて先生におもねる。 「そうとばかりも言えないが、……」  しめた! 少しご機嫌が直って来たようだ。賭けてもいい、この先生の、外套の襟の蔭の頬が、ゆるんだに違いない。  青年は図に乗り、 「近代音楽の堕落は、僕は、ベートーヴェンあたりからはじまっていると思うのです。音楽が人間の生活に向き合って対決を迫るとは、邪道だと思うんです。音楽の本質は、あくまでも生活の伴奏であるべきだと思うんです。僕は今夜、久し振りにモオツアルトを聞き、音楽とは、こんなものだとつくづく、……」 「僕は、ここから乗るがね。」  有楽町駅である。 「ああ、そうですか、失礼しました。今夜は、先生とお話が出来て

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底本:「太宰治全集9」ちくま文庫、筑摩書房
入力:柴田卓治 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card2295.html)