温泉

作者:梶井基次郎 約9分で読めます

温泉を縦書きで読む(Textfall)

断片 一

夜になるとその谷間は真黒な闇に呑まれてしまう。闇の底をごうごうと溪が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。  浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のような感じの共同湯であった。その巌丈な石の壁は豪雨のたびごとに汎濫する溪の水を支えとめるためで、その壁に刳り抜かれた溪ぎわへの一つの出口がまた牢門そっくりなのであった。昼間その温泉に涵りながら「牢門」のそとを眺めていると、明るい日光の下で白く白く高まっている瀬のたぎりが眼の高さに見えた。差し出ている楓の枝が見えた。そのアーチ形の風景のなかを弾丸のように川烏が飛び抜けた。  また夕方、溪ぎわへ出ていた人があたりの暗くなったのに驚いてその門へ引返して来ようとするとき、ふと眼の前に――その牢門のなかに――楽しく電燈がともり、濛々と立ち罩めた湯気のなかに、賑やかに男や女の肢体が浮動しているのを見る。そんなとき人は、今まで自然のなかで忘れ去っていた人間仲間の楽しさを切なく胸に染めるのである。そしてそんなこともこのアーチ形の牢門のさせるわざなのであった。  私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗を感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓のない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくのがたび重なるとともに、私は自分の恐怖があるきまった形を持っているのに気がつくようになった。それを言って見ればこうである。  その浴場は非常に広くて真中で二つに仕切られていた。一つは村の共同湯に、一つは旅館の客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである。村の方の湯にはいっているときには、きまって客の湯の方に男女のぽそぽそ話しをする声がきこえる。私はその声のもとを知っていた。それは浴場についている水口で、絶えず清水がほとばしり出ているのである。

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底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社
入力:j.utiyama 校正:二宮知美
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card2385.html)