病室の花
作者:寺田寅彦 約11分で読めます
発病する四五日前、三越へ行ったついでに、ベコニアの小さい鉢を一つ買って来た。書斎の机の上へ書架と並べて置いて、毎夜電燈の光でながめながら、暇があったらこれも一つ写生しておきたいと思っていたが、つい果たさずに入院するようになった。 入院の日に妻がいろいろの道具といっしょにこの鉢を持って来た、そして寝台のすぐ横にある大理石を張った薬びん台の上に載せた。灰色の壁と純白な窓掛けとで囲まれたきりで、色彩といえばただ鈍い紅殻塗りの戸棚と、寝台の頭部に光る真鍮の金具のほかには何もない、陰鬱に冷たい病室が急にあたたかくにぎやかになった。宝石で作ったような真紅のつぼみとビロードのようにつやのある緑の葉とを、臥ながら灰色の壁に投射して見ると全く目のさめるように美しかった。 いつでも思う事ではあるが、いかに精巧をきわめた造花でも、これを天然の花に比べては、到底比較にならぬほど粗雑なものである。いつかアメリカのどこかの博物館で、有名な製作者の造ったというガラスの花を見たが、それも天然の花に比べてはまるで話にならぬほどつまらない、しかもいやな感じのするものであった。このような差別の根原はいったいどこにあるだろう。色彩や形態に関するあらゆる抽象的な概念や言葉を標準にして比較すれば造花と生花の外形上の区別は非常に困難な不得要領なものになってしまう。「一方は死んでいるが他方は生きている」という人があるかもしれない。しかしそれはただ一つの疑問を他の言葉で置き換えたに過ぎない。実際の明白な区別は、やはり両者を顕微鏡で検査してみて始めてわかるのではあるまいか。一方はただ不規則な乾燥したそして簡単な繊維の集合か、あるいは不規則な凹凸のある無晶体の塊であるのに、他方は複雑に、しかも規則正しい細胞の有機的な団体である。美しいものと、これに似た美しくないものとの差別には、いつでもこのような、人間普通の感覚の範囲外にある微妙な点があるのではあるまいか。人間でも意識の奥に隠れた自己といったようなものが、その人がらの美しさを決定する要素ではあるまいか。こんな事を考えながらベコニアの花をしみじみ見つめていると、薄弱な自分の肉眼の力ですら、花弁の細胞の一つ一つから出る生命の輝きを認めるような気もする。 入院の翌日A君が菜の花を一束持って来てくれた。適当な花瓶がなかったからしばらく金盥へ入れておいた。室咲きであるせ
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
入力:田辺浩昭 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2436.html)