春寒
作者:寺田寅彦 約6分で読めます
スカンジナヴィアの遠い昔の物語が、アイスランド人の口碑に残って伝えられたのを、十二世紀の終わりにスノルレ・スツール・ラソンという人が書きつづった記録が Heimskringla という書物になって現代に伝えられている。その一部が英訳されているのをおもしろそうだと思って買って来たまま、しばらく手を触れないで打っちゃっておいた。 ことしの春のまだ寒いころであった。毎日床の中に寝たきりで、同じような単調な日を繰り返しているうちに、ふと思い出してこの本を読んでみた。初めの半分はオラーフ・トリーグヴェスソンというノルウェーの王様の一代記で、後半はやはり同じ国の王であったが、後にセント・オラーフと呼ばれた英雄の物語である。 大概は勇ましくまた殺伐な戦闘や簒奪の顛末であるが、それがただの歴史とはちがって、中にいろいろな対話が簡潔な含蓄のある筆で写されていたり、繊細な心理が素朴な態度でうがたれていたりするのをおもしろいと思った。それから一つの特徴としては、王の軍中に随行して、時々の戦の模様や王の事蹟を即興的に歌った詩人(Scalds)の歌がところどころにはさまれている事である。それがために物語はいっそう古雅な詩的な興趣を帯びている。 日本に武士道があるように、北欧の乱世にはやはりそれなりの武士道があった。名誉や信仰の前に生命を塵埃のように軽んじたのはどこでも同じであったと見える。女にも烈婦があった。そしてどことなくイブセンの描いたのに似たような強い女も出て来た。さすがにワルキリーの国だと思われたりした。 オラーフ・トリーグヴェスソンが武運つたなく最後を遂げる船戦の条は、なんとなく屋島や壇の浦の戦に似通っていた。王の御座船「長蛇」のまわりには敵の小船が蝗のごとく群がって、投げ槍や矢が飛びちがい、青い刃がひらめいた。盾に鳴る鋼の音は叫喊の声に和して、傷ついた人は底知れぬ海に落ちて行った。……王の射手エーナール・タンバルスケルヴェはエリック伯をねらって矢を送ると、伯の頭上をかすめて舵柄にぐざと立つ。伯はかたわらのフィンを呼んで「あの帆柱のそばの背の高いやつを射よ」と命ずる。フィンの射た矢は、まさに放たんとするエーナールの弓のただ中にあたって弓は両断する。オラーフが「すさまじい音をして折れ落ちたのは何か」と聞くと、エーナールが「王様、あなたの手からノルウェーが」と答えた。王が代わ
底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
入力:田辺浩昭 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2439.html)