ラジオ・モンタージュ

作者:寺田寅彦 約5分で読めます

ラジオ・モンタージュを縦書きで読む(Textfall)

プドーフキンやエイゼンシュテインらの映画の芸術的価値が世界的に認められると同時に彼らのいわゆるモンタージュの理論がだいぶ持てはやされ、日本でもある方面ではこのモンタージュということが一種のはやり言葉になったかのように見える。この言葉の意味については本家本元の二人の間にも異論があるそうであって、これについては近ごろの読売新聞紙上で八住利雄氏が紹介されたこともある。  このモンタージュなるものは西洋人にとってはたしかに非常な発見であったに相違ない。そうしてこれに対する解説を近代的な言葉で発展させればいろいろむつかしくも言えるようであるが、しかしわれわれ日本の旧思想の持ち主の目から見れば実質的にはいっこう珍しくもなんともないことのように思われてしかたがない。つまり日本人がとくの昔から、別にむつかしい理論も何もなしにやっていた筆法を映画の上に応用しているようにしか思われないのである。  たとえば昔からある絵巻物というものが今の映画、しかもいわゆるモンタージュ映画の先駆のようにも見られる。またいわゆる俳諧連句と称するものが、このモンタージュの芸術を極度に進歩させたものであるとも考えられるのである。そうしてまたこのモンテーという言葉自身が暗示するように、たとえば日本の生花の芸術やまた造庭の芸術でも、やはりいろいろのものを取り合わせ、付け合わせ、モンタージュを行なって、そうしてそこに新しい世界を創造するのであって、その芸術の技法には相生相剋の配合も、テーゼ、アンチテーゼの総合ももちろん暗黙の間に了解されているが、ただそれがなんら哲学的な術語で記述されてはいないのである。  ところがおもしろいことには、日本でエイゼンシュテインが神様のように持てはやされている最中に、当のエイゼンシュテイン自身が、日本の伝統的文化は皆モンタージュ的であるが、ただ日本映画だけがそうでないと言ったという話が伝えられて来た。彼は日本の文字がそうであり、短歌俳諧がそうであり、浮世絵がそうであると言い、また彼の生まれて初めて見たカブキで左団次や松蔦のする芝居を見て、その演技のモンタージュ的なのに驚いたという話である。これは近ごろ来朝したエシオピアの大使が、ライオンを見て珍しがらずに、金魚を見て驚いた話ともどこか似たところのある話である。また日本の浮世絵芸術が外国人に発見されて後に本国でも認められるようになった

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底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
入力:(株)モモ 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2462.html)