俳諧の本質的概論

作者:寺田寅彦 約27分で読めます

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古い昔から日本民族に固有な、五と七との音数律による詩形の一系統がある。これが記紀の時代に現われて以来今日に至るまで短歌俳句はもちろん各種の歌謡民謡にまでも瀰漫している。この大きな体系の中に古今を通じて画然と一つの大きな線を引いているものが三十一字の短歌である。その線の途中から枝分かれをして連歌が生じ、それからまた枝が出て俳諧連句が生じた。発句すなわち今の俳句はやはり連歌時代からこれらの枝の節々を飾る花実のごときものであった。後に俳諧から分岐した雑俳の枝頭には川柳が芽を吹いた。  連歌から俳諧への流路には幾多の複雑な曲折があったようである。優雅と滑稽、貴族的なものと平民的なものとの不規則に週期的な消長角逐があった。それが貞門談林を経て芭蕉という一つの大きな淵に合流し融合した観がある。この合流点を通った後に俳諧は再び四方に分散していくつもの別々の細流に分かれたようにも思われる。  一方において記紀万葉以来の詩に現われた民族的国民的に固有な人世観世界観の変遷を追跡して行くと、無垢な原始的な祖先日本人の思想が外来の宗教や哲学の影響を受けて漸々に変わって行く様子がうかがわれるのであるが、この方面から見ても蕉門俳諧の完成期における作品の中には神儒仏はもちろん、老荘に至るまでのあらゆる思想がことごとく融合して一団となっているように見える。そうして、儒家は儒になずみ仏徒は仏にこだわっている間に、門外の俳人たちはこれらのどれにもすがりつかないでしかもあらゆるものを取り込み消化してそのエッセンスを固有日本人の財産にしてしまったように見える。すなわち芭蕉は純日本人であったのである。  こういう意味において、俳諧の本質を説くことは、日本の詩全体の本質を説くことであり、やがてはまた日本人の宗教と哲学をも説くことになるであろう。しかしそれは容易のわざではない。ここではただそういう意識を心頭に置き、そうしてその上に立って蕉門俳諧そのものの本質に関する若干の管見を述べるよりほかに現在の自分の取るべき道はないのである。

俳諧はわが国の文化の諸相を貫ぬく風雅の精神の発現の一相である。風雅という文字の文献的起原は何であろうとも、日本古来のいわゆる風雅の精神の根本的要素は、心の拘束されない自由な状態であると思われる。思無邪であり、浩然の気であり、涅槃であり天国である。忙中に閑ある余裕の態度であり、死

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底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」岩波文庫、岩波書店
入力:(株)モモ 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2471.html)