蒸発皿
作者:寺田寅彦 約15分で読めます
一 亀井戸まで
久しぶりで上京した友人と東京会館で晩餐をとりながら愉快な一夕を過ごした。向こうの食卓には、どうやら見合いらしい老若男女の一団がいた。きょうは日がよいと見える。近ごろの見合いでは、たいてい婿殿のほうがかえって少しきまりが悪そうで、嫁様のほうが堂々としている。卓上の花瓶に生けた紫色のスウィートピーが美しく見えた。 会館前で友人と別れて、人通りの少ない仲通りを歩いていると、向こうから子供をおぶった男が来かかって、「ちょっと伺いますが亀井戸へはどう行ったらいいでしょう。……玉の井という所へ行くのですが」と言う。「それなら、あしこから電車に乗って車掌によく教えてもらったほうがいいでしょう、」というと「いや、歩いて行くのです」とせき込んだ口調で言うのである。「それはたいへんだが、……それならとにかく向こうの濠端を右へまっすぐに神田橋まで行って、そのへんでまたもう一ぺんよく聞いたほうがいいでしょう」と言って別れた。 かなり夜風が寒い晩だのに、男は羽織も着ず帽もなしで、いかにも身すぼらしいふうをしていた。三十格好と思われる病身そうな青白い顔に、あごひげをまばらにはやしているのが夜目にもわかった。そうしてその熱病患者に特有なような目つきが何かしら押え難い心の興奮を物語っているように見えた。男の背中には五六歳ぐらいの男の子が、さもくたびれ果てたような格好でぐったりとして眠っていた。雨も降らぬのに足駄をはいている、その足音が人通りのまれな舗道に高く寒そうに響いて行くのであった。 しばらく行き過ぎてから、あれは電車切符をやればよかったと気がついた。引っ返して追い駆けてやったら、とは思いながら自分の両足はやはり惰性的に歩行を続けて行った。 女房にでも逃げられた不幸な肺病患者を想像してみた。それが人づてに、その不貞の妻が玉の井へんにいると聞いて、今それを捜しに出かけるのだと仮定してみる。帽子も羽織も質に入れたくらいなら電車賃がないという事も可能である。あの男の顔つき目つきはこの仮説を支持するに充分なもののように思われた。そうだとすれば実にかわいそうな父子である。円タクでも呼んで乗せて送ってやってもしかるべきであったという気がした。 しかし、また考えてみると、近ごろ新聞などでよく、電車切符を人からねだっては他の人に売りつける商売があるという記事を見ることが
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
入力:(株)モモ 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2483.html)