映画と生理

作者:寺田寅彦 約5分で読めます

映画と生理を縦書きで読む(Textfall)

ある科学者で、勇猛に仕事をする精力家としてまた学界を圧迫する権威者として有名な人がある若いモダーンなお弟子に「映画なんか見ると頭が柔らかくなるからいかん」と言って訓戒したそうである。この「頭が柔らかくなる」というのはもちろん譬喩的の言葉であるには相違ないが、しかしその言った先生の意味が正確にどういう内容のものであったか、当人に聞いてみなければ結局ほんとうのことはわからない。ただその先生の平生の勉強ぶりから推して考えてみると、映画の享楽の影響から自然学問以外の人間的なことに興味を引かれるようになり、肝心の学問の研究に没頭するに必要な緊張状態が弛緩すると困るということを、こういう独特な言葉で言い現わしたのではないかと思われる。  この訓戒はこの学者の平生懐抱するような人生哲学からすればきわめて当然な訓戒として受け取られるのであるが、これとは少しちがった種類の哲学の持ち主であるところの他の学者に言わせると、それと反対に「映画でも見ないと頭がかたくなっていけないから時々見るほうがいい」とも言われうるからおもしろいのである。  それはとにかく、自分の関係している某研究所で時々各員の研究の結果を発表するための講演会が開かれる。その会の開催前になるとやはりどうしても平生よりは仕事が忙しくなって何かとよけいに頭を使う。そうしていよいよ当日の講演会に出て講演したり討議したり、たとえ半日でもとにかく平生とは少しちがった緊張興奮の状態を持続したあとでは、全く「頭がかたくなった」といったような奇妙な心的状態に陥ってそれが容易には平常に復しないで困ることがある。今まで注意を集注していた研究事項の内容がひとかたまりになって頭の中にへばりついたようなぐあいになってそれがなかなか消散しない。用がすんだら弛緩してもいいはずの緊張が強直の状態になってそれが夜までも持続して安眠を妨げるようなことがおりおりある。このような神経の異常を治療するのにいちばん手軽な方法は、講演会場から車を飛ばしてどこかの常設映画館に入場することである。上映中の映画がどんな愚作であってもそれは問題でない、のみならずあるいはむしろ愚作であればあるほどその治療的効果が大きいような気もするのである。  ちょっと考えると、たださえ頭を使い過ぎて疲れている上に、さらにまた目を使い耳を使いよけいな精神的緊張を求めるのであるから、結果はきわ

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底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
入力:(株)モモ 校正:多羅尾伴内
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2496.html)