B教授の死

作者:寺田寅彦 約10分で読めます

B教授の死を縦書きで読む(Textfall)

さわやかな若葉時も過ぎて、日増しに黒んで行く青葉のこずえにうっとうしい微温の雨が降るような時候になると、十余年ほど前に東京のSホテルで客死したスカンジナビアの物理学者B教授のことを毎年一度ぐらいはきっと思い出す。しかし、なにぶんにももうだいぶ古いことであって、記憶が薄くなっている上に、何度となく思い出し思い出ししているうちには知らず知らずいろいろな空想が混入して、それがいつのまにか事実と完全に融け合ってしまって、今ではもうどこまでが事実でどこからが空想だかという境目がわからない、つまり一種の小説のような、というよりもむしろ長い年月の間に幾度となく蒸し返された悪夢の記憶に等しいものになってしまった。これまでにもなんべんかこれに関する記録を書いておきたいと思い立ったことはあったが、いざとなるといつでも何かしら自分の筆を渋らせるあるものがあるような気がして、ついついいつもそれなりになってしまうのであった。しかし、また一方では、どうしても何かこれについて簡単にでも書いておかなければ自分の気がすまないというような心持ちもする。それで、多少でもまだ事実の記憶の消え残っている今のうちに、あらましのことだけをなるべくザハリッヒな覚え書きのような形で書き留めておくことにしようと思う。  欧州大戦の終末に近いある年のたぶん五月初めごろであったかと思う。ある朝当時自分の勤めていたR大学の事務室にちょっとした用があってはいって見ると、そこに見慣れぬ年取った禿頭のわりに背の低い西洋人が立っていて、書記のS氏と話をしていた。S氏は自分にその人の名刺を見せて、このかたがP教室の図書室を見たいと言っておられるが、どうしましょうかというのである。その名刺を見ると、それはN国のK大学教授で空中窒素の固定や北光の研究者として有名な物理学者のB教授であった。同教授にはかつてその本国で会ったことがあるばかりでなく、その実験室で北光に関する有名な真空放電の実験を見せてもらったり、その上に私邸に呼ばれてお茶のごちそうになったりしたことがあったので、すぐに昔の顔を再認することができたが、教授のほうではどうもあまりはっきりした記憶はないらしかった。  教授が今ここの図書室で見たいと言った本は、同教授の関係した北光観測のエキスペジションの報告書であったが、あいにくそれが当時のP教室になかったので、あてにして来たらし

続きを読む — B教授の死|Textfall

底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
入力:(株)モモ 校正:多羅尾伴内
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2515.html)