ロンドン一九二九年
作者:宮本百合子 約52分で読めます
手提鞄の右肩に赤白の円い飛行会社のレベルがはられた。「航空ユニオン。27」廻転するプロペラーの速力を視覚に印象させるような配列法でこまかく、赤白、赤白。
巴里。 ロンドン。 リオン。 マルセーユ。 9.オーブル通 ヘイマーケット パレス・ホテル 1.パーベル通
レベルは射的店の風車に似ている。 四時間前、鞄は巴里の飛行会社で白エナメルの計重器の上にあった。いまそれはロンドンのただなかにある。ホテルの古風なセセッション式壁紙の根っこに置いてある。 少しばかりの着物の束を押しつけてオリーブ色の手帳、大日本帝国外国旅券NO・084601が入っていた。あっちこっちで引くり返され端がささくれ始めた第七頁には携帯人の写真、第十五頁に英国旅券掛の紫スタンプが七シリング六ペンスの皇帝ジョージの横顔の上に押してあった。そして書いてある。三週間以内ノ英国滞留ヲ許可ス、と。 手に赤い厚紙切符を握り日本女は乗合自動車に乗っていた。乗合自動車は二階だ。黄、赤、黒の英国式色調だ。辻々でヘルメットをかぶった六フィートの巡査の合図にしたがって止る。ある場所では長く待つ。「待って見ていよう」世界的に有名な一英国の標語に従って日本女はバスの窓からロンドン市を眺め渡した。 ロンドンは八月の太陽の下に都市計画のない大都市の街筋をひろげている。公園のまわりにはいろんなアーチがあった。公園の濃く茂った木と青草が並木道がわりだ。ボンド街やリジェント街でショー・ウィンドウの大ガラスは、磨かれたそのおもてに、続けざまに止ったり動いたりする乗合自動車の姿をうつした。歩道を往来する女達の英国式かかとをも反映させた。イギリスの女靴はイギリス女の体がいやに細長いようにとんがって長い。それから時々ショー・ウィンドウ硝子板の世界的近代商業の輝きの隅に、純然たるイギリス風なあるものが現れた。それは頭に小さい王冠をのせた黄金の獅子と一匹の馬とが左右から一つの楯にしがみついている紋章である。これと同じものがバッキンガム宮殿の門扉の上にあった。リジェント街一〇〇番の洋服裁縫店のショー・ウィンドウにある。ある馬具屋の窓の上に、リプトン紅茶の小箱の上にある。「皇帝御用指定商」リプトンはセイロン島の土人に茶を拵えさせながら、ヨーロッパのヨット界の親玉になっている。 八月のロンドンの空気は乾燥している。毛織物を
底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:米田進
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2643.html)