ジャンの物語

作者:宮本百合子 約11分で読めます

ジャンの物語を縦書きで読む(Textfall)

フランスの『マリアンヌ』という新聞に、ロシアの大文豪であったレフ・トルストイの孫息子にあたるジャンという少年が、浮浪児として少年感化院に入れられ、そこから脱走して再び警察の手にとらわれたときかいた「ジャンの手記」というものを発表した。  トルストイには何人かの息子がいたが、父親が人間の歴史にのこした強大な足跡をうけてそれを発展させてゆくような人は一人も出なかった。ジャンの父であるひとも、その息子たちのうちの不仕合わせな一人であるらしい。  有名なひとの孫がパリでそのような生活に陥っているということに対して、私たちの心が動かされるとしたら、それは俗っぽく名家二代なしの証拠をそこに見るためではないと思う。トルストイという極めて強烈な生命力を発散させて生涯を終った一つの人間性が周囲に投げた波紋や、それから後急激に移り進んだロシアの歴史の変遷、それに対する貴族としてのトルストイ家の人々の動きかた、あらゆる複雑な世紀と人生の波濤をそこに感じるからであろうと思う。  今日私たちのところには「チボー家の人々」が訳されており、その主人公のジャックの一時期の境遇を描いた「灰色の手帖」「少年園」は一般につよい感銘を与えている。マリイ・オゥドゥウの「孤児マリイ」は何とまざまざと女の子のための孤児院の生活感情を語っているだろう。「格子なき牢獄」という映画にはリュシェールという若い女優の美しさばかりでなく私たちの心をうつものがあった。そして、それよりもっと生のままの身近い現実として、今日の私たちの周囲には少年犯罪の増加の事実が世人の注意をひいているのである。

この、ジャン少年の手記は、トルストイの文学に親しみぶかい日本の多くの人々の心に、少なからず刺戟を与えるだろうと思う。特につい先達って築地の小劇場で新協が演じたアンナ・カレーニナを観た女のひとたちの心に。アンナがカレーニンと離婚することが出来なかった原因はいくつかあるが、その一つは、うたがいもなく可愛い息子セリョージャを全くカレーニンにうばわれてしまう苦痛に堪えないからであると描かれていた。トルストイが「アンナ・カレーニナ」を書いたのは四十九歳のときであった。トルストイが没したのは一九一〇年であったから、今日まで二十七年の歳月が流れた。この二十七年の日月は人類の歴史上かつてなかった大波瀾を内容としていて、彼の見ざる孫の一人ジャンのこ

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底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:米田進
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2793.html)