作家と教養の諸相
作者:宮本百合子 約7分で読めます
作家にとって教養というものは、どんな関係にあるのだろうか。これまでのいろいろの時代に、作家と教養のことが云われたのであったが、それぞれにその時代の文学的趨勢とでも云うべきものを、何かの形で反映していることは、今日私たちを考えさせるところだと思う。 徳川時代というものの中で眺める馬琴というような作家は、同時代の庶民的情調に立つ軟文学の気風に対して、教養派のくみであったろうが、馬琴の芸術家としての教養の実体はモラルとしての儒教に支那伝奇小説の翻案的架空性を加えたものが本道をなしていたと思える。その意味で作家馬琴の所謂教養はつまらなくもあるけれども、今日の私たちに興味を抱かせる点は、官学派のようなこの作家も時代の活きた脈動には自ずとつきうごかされるところがあって、当時の諸国往来の風俗・俚謡・伝説などにつよい関心を示しているところは面白い。伝統的な士道の末期的な教養は一面で馬琴の世界に勧善懲悪の善玉悪玉をつくり出しているとともに、他の半面では既に封建の石垣がくずれようとしている現実的な力に浸潤され、より現実の市民常識への拡大が行われているのである。 明治の初期の文学では、江戸末期の戯作者風な作者と黎明期の啓蒙書・翻訳文学が対立したが、尾崎紅葉の硯友社時代には、仏文学の影響やロシア文学の影響をもちながら、作家気質の伝統は戯作者気質の筋をひいていた。坪内逍遙の「当世書生気質」は、日本の近代文学の第一歩の導きとなって彼の近代小説論「小説神髄」の創作的実験であったが、その作品の世界は書生という姿に於て踏襲されている昔ながらの遊蕩の世界であり、その遊蕩というものに対する作者の態度も、戯作者的現実追随の域を脱していなかった。 こういう時代に、二葉亭四迷がロシア文学の教養から、人生における男女の自我の対立や個性と通俗のしきたりとの摩擦をとりあげたことは、まことに驚くべきことであったと思う。二葉亭の、当時の日本文学の通念より前進しすぎていた人生的教養は、逆に彼に文学は男子一生の事業に価するものかどうかという懐疑に陥れている。このことも、私たちに少なからず暗示するところがあると思う。 硯友社の文学的傾向に対して、作家は昔の戯作者に非ずとして、人生的な教養の必要を強調したのは、当時の内田魯庵その他所謂人生派の論客たちであった。 自然主義文学の動きは、硯友社的美文で造り上げられた現実
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:米田進
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2820.html)