逝けるマクシム・ゴーリキイ

作者:宮本百合子 約14分で読めます

逝けるマクシム・ゴーリキイを縦書きで読む(Textfall)

一人の人間として最も誠実な心から人類の生活の向上と発展とを信頼し、そのために永い困難な芸術家としての努力を捧げたマクシム・ゴーリキイの六十八年の輝きある生涯は、この六月遂に終った。  ゴーリキイは、ロマン・ローランなどと共に今日の世界がその人を持っていることを誇る偉大な芸術家の一人であるが、特にゴーリキイはその名を聞いたとき人々の心に一種云うに云われぬ暖かさ、親しさを感じさせ、終局に於て人類は不合理や穢辱に堪えきれるものではないのだという単純なはっきりとして楽しい確信を湧き起させる力をもっているのは何故であろうか。私はこの男らしく而も優しい偉大な人生の一選手がどんな苦痛や歓びをもって自分の時代と境遇とを生きぬき、芸術家として老いて猶且つ永遠に若い生命力の源泉となり得たかという物語を、ここに語りたいと思うのである。  マクシム・ゴーリキイは、一八六八年三月二十八日、ロシアでは最も古くから発達した商業都市の一つであるニージュニ・ノヴゴロド市に生れた。本名は、アレクセイ・マクシモヴィチ・ペシコフと云った。父親はマクシム・ペシコフ。母の名はワルワーラと呼ばれ、彼は二人の長男として生れたのであった。  父親のマクシムはゴーリキイが五つの時、ヴォルガ河を通っている汽船の中で急病で死んだが、どちらかというと特別な生涯を経験した人であった。  その父親が死んでから、小さいアリョーシャ(ゴーリキイ)は母親のワルワーラと一緒に祖父の家で暮すことになった。が、この鋭い刺のあるような緑色の眼をした老人は、一目見たときからゴーリキイの心に何か本能的な憎しみを射込んだと同時に、この祖父を家長といただいて生活する伯父二人とその妻子、祖母さんに母親、職人達という一大家族の日暮しの有様は、全く幼いゴーリキイにとって悪夢のように思われた。  深くかぶさった低い屋根のある、薔薇色ペンキで塗った穢い家の中には二六時中怒りっぽい人達が気忙しく動き廻り、雀の群のように子供達が馳け廻っていた。ワルワーラが帰って来たので伯父たちの財産争いは一層激しくなり、飯の最中に掴み合いが始ることも珍しくなかった。さもなければ、こういう伯父たちが先棒になって、半分盲目になった染物職人の指貫きをやいておいて火傷をさせて悦ぶような残酷で卑劣なわるさを企らむ。あらゆる悪態、罵声、悪意が渦巻くような苦しい毎日なのであるが、その裡でゴ

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底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:米田進
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2875.html)