音楽の民族性と諷刺
作者:宮本百合子 約6分で読めます
この春新響の演奏したチャイコフスキーの「悲愴交響楽」は、今も心のなかに或る感銘をのこしている。一度ならず聴いているこの交響楽から、あの晩、特別新鮮に深い感動を与えられたのはおそらく私一人ではなかったろうと思う。 十九世紀のあの時代のロシア、そして、そこを生きたチャイコフスキーが、音楽そのものの力で語り、描き訴えている生命の色彩の生々しい古典性が、見事に流露された。非常に面白く思われた。あの作品は、とかくチャイコフスキーのスラブ的なものというものに足をとられて演奏されることが多く、その結果はかえって作品の生命感を弱めたり甘くしたりする場合が多い。これまでは、どことなくそんな傾きの伴った「悲愴」をよく聴いたような気がする。 先頃の新響の「悲愴」は、そういう意味での観念でかたちづくったスラブ的なものにこだわらず、音をつかんで音の息づいている生命の流れに従っていて、あれだけ音楽として独特の美を発揮させたと思える。チャイコフスキーの生粋な芸術家としての創作の力をも感銘させられた。民族のさまざまな特質やその特質を更に個性のニュアンスで音楽にうちこめている作品の再現としての演奏が、純粋に音の領域から入ってその精髄にふれてゆくことも、いろいろと考えさせて感興ふかかった。 音楽にも民族の性格が顕著なのは自然だが、その自然なものを扱う手法には、種々の不自然さが生じているのが現代社会の一つの悩みであり、課題でもある。この間の「悲愴」の美しさから思いめぐらしても、音楽にある民族的な特性というものを、音楽の外からの解釈や説明でつけ加えても、それが芸術音楽としての内在的な充実感となって来ないということは、しみじみわかる。そしてまた、音そのものの記号の上にだけ民族的特徴をとらえたとして、それの羅列で作ったところで、やはり流動する生命のリズムとしての民族性は人の心をうつものたり得ないことが実感されたのも興味ふかかった。文学は、文字でかかれつつ文字の上にだけその生気をとらえているのでなくて、むしろ、文字から文字へのうつりの底に、流れ動き脈うつ芸術性を湛えている。音楽の日本的な要素のことがいろいろ問題になっているが、私たちにとって関心をひかれる点は、やはり、この音の記号の上での日本らしさの試みが、どのように音の流れそのものの生命が語る日本らしいものに成熟させられてゆくかということでないだろうか
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2893.html)