文学の大陸的性格について
作者:宮本百合子 約8分で読めます
『現代アメリカ文学全集』の中にドライサアの「アメリカの悲劇」が出ている。 この間よみかえしてみて、これまでとはちがった新しい感銘をうけた。もと読んだときには、ずいぶん古いことだったけれども、文章のきめの荒さや作者の身についている一つのぬーっとした脂こさが、鼻にぬけるアメリカ英語と共通な反撥を感じさせるようで馴染めなかった。今度読みかえすと、やはりこの作品がアメリカを描いた文学として現代古典となる理由がわかった気がした。 アメリカの社会の成り立ちの性質は、この小説の主人公クライドのような貧しい、正統な教育もさずけられていない、孤独な青年の胸のなかにも、出身や栄達の希望と空想とを抱かせる一応のデモクラシーがあるようで、デモクラシーの名とともに燦く富の力はそれらの青年たちのまるで身近くまでちかづいて、クライドのようにそのなかに入ったように見えるところまで来て、さていざとなると、富める者は自分たちの気まぐれな触手をさっと引っこめて、貧しい無援な青年の生涯は悲しく浪費されてゆくことが、「アメリカの悲劇」の本質として描かれている。 デモクラシーというアメリカの祖語に対して、日常現実のそういう対立と隔絶の中からドライサアの見出した悲劇が、現代のアメリカの社会悲劇であるということは、誰しも肯かざるを得ないから、この作品が今から三十年前に発表されたとき、アメリカのあらゆる読書人が何かの意味で衝撃を感じたということは十分に推察される。 ドライサアは大変バルザックがすきだそうで、そう云われれば文体などでもバルザック風に所謂文学的磨きなどに拘泥しないで、いきなり生活へ手をつっこんでそこからつかみ出して書いているようなところに、ある共通なものがある。 主人公クライドが、愛人である女工のロバアタの始末にこまって、ふとした新聞記事の殺人事件から暗示をうけ、その錯乱した心理の圧迫がロバアタを恐怖させその瞬間の二人の動物的なまた心理的な葛藤から、ついにロバアタが命をおとして、クライドは死刑になるあたりの心理の追究は、ドストイェフスキーの影響をうけて、作品を通俗小説のプロットから救っているようだが、全体からみるとこしらえものであるという印象を与える。 そういう部分ばかりでなく、ドライサアの現実のみかたには通俗なところがあって、クライドの心理、行動のモメントを肯定している作者としての肯定のし
底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2900.html)