生活者としての成長 二葉亭四迷の悲劇にもふれて

作者:宮本百合子 約9分で読めます

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三四年前、いろいろなところで青年論がされたことがあった。そのときは、現実の社会生活と文化との間にヒューメンなものの可能を積極的に見出してその成長や開花を求めてゆこうとしていた日本の精神のあらわれの一つとして、多くの可能をひそませているはずの人間の青春、青年が評価され直したのであったと思う。  このごろまた雑誌や演説で、ひどく青年は呼びかけられているし、激励されているし、期待するところ大なりとされているのであるが、あのときの青年論とこの頃の青年へのよびかけには、どこかちがったところがある。  何故なら、三四年前青年の人生への価値、未来への期待が語られたときには、主として青年が自発的に自分の存在の意義を発見して、この歴史の進歩と人類のために役立ってゆく美しさについて語られていた。ところが、近頃はめいめいは自発して自己の価値を自覚しなければならないという表現よりも、「諸君は」と、一括した青年群として呼びかけられ、一括した精神と行動との必要に向って注目することを求められている。そして、その声は大変大きくつよく響いているのだけれど、現実には、この間、『都新聞』に詩人の萩原朔太郎氏の書いていられたような青年の無気力という現象があらわれてもいる。  ここに極めて入りくんだ現代の青春の問題が潜められているのではないだろうか。呼びかけの声はちょうど往来を私どもが歩いているとき頭の上できこえるラジオのラウド・スピーカアの声となって空に響いてはいるけれど、それに交る電車の音、群衆の跫音もあって、何となし心にずーっとしみこんで来ない。語られていることにも種々様々の疑問があって、それをただしたいにも時の流れの瀬音は騒然としていて、そんなしんみりとした時間のかかるものの追究のしかたは昨今はやらないという気風もある。そういうところに一言や二言で云いつくし現しつくせない若い精神の苦悩があるのではないだろうか。

この間安倍能成氏が一高の校長となったときの何かの談話で、現代の青年はさまざまの外面的な慰安を求める代り、友情に慰安を求めよ、という意味を云われたということをきいた。安倍さんという人は漱石門下の一人で、昔は「大思想家の人生観」というしごく尨大でわかりにくい本の翻訳などもやり、今なお老いて若い心があって、青年の大先輩として思いやりのあるひとの一人であろう。友情に慰安を求めよ、と云う言葉のな

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底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card2901.html)