さよならMECE
作者:うなぎすぎと 約41分で読めます
序章 メンチのお兄ちゃん 「そば処 おおじま」は、看板こそ蕎麦屋だが、客の九割は定食を注文する。壁一面に貼られた木の札には焼肉定食、ハンバーグ定食、アジフライ定食、生姜焼き定食、メンチカツ定食と並んでいて、蕎麦の品書きは左上の隅に追いやられている。浦和駅から十五分ほど歩いた、古い住宅街の角にある店だ。 暖簾をくぐると、アリさんが顔を上げた。 「あら、久しぶり」 それから少し間があって、 「メンチのお兄ちゃんじゃない」 「ご無沙汰してます」 いつものでいい?と言いたげな顔をしながら、アリさんは私が注文するのを待っている。それがこの店の作法だった。私は壁の札を端から端まで眺め、眺め終えてから、いつもと同じものを頼む。 「メンチカツ定食をお願いします」 「あいよ」と奥から声がした。 店奥のテーブル席に座った。窓の外を近所の子どもが自転車で走り抜けていき、厨房からは油の音が四分間、続いた。 メンチカツ定食が来た。ふっくらとした楕円が二つ。揚げたてだった。誰も頼まないから、いつも揚げたてが出る。昔からそうだった。きつね色の衣が湯気を立てている。箸を入れると、さくり、と音がして、断面から肉汁が滲んだ。一口、食べた。奥では店主がテレビを見ていて、野球中継の解説の声が、ときどき大きくなる。もう一口、食べた。それから私は、箸を置いた。しばらく、そのままでいた。窓の外の空が、いつのまにかだいだい色になっていた。どうしてこうなったのかを話すには、ずいぶん前まで戻らなければならない。
第一章 消えた名前 私の名前は遠野という。下の名前は、ここでは伏せておく。 銀行では「うな」と呼ばれていた。入社の歓迎会で鰻を食べたとき、誰かが「遠野はうなぎが好きなんだな」と言い、それで「うな」になった。特別好きだったわけではない。ただ訂正する機会を逃し、逃したまま十年が経過した。あだ名というのは、だいたいそういうふうに決まる。 私にはもうひとつ、呼び名がある。「メンチのお兄ちゃん」。こちらは高校時代のものだ。私は浦和にある県立R高校に通っていた。学校の近くに「おおじま」はあり、三年間、ほぼ毎週通った。定食の中でいちばん安いのがメンチカツ定食で、それでも単品ものよりは高かったから、同級生はみなチャーハンかラーメンを頼んだ。メンチを頼む高校生は私のほかにいなかった。誰も頼まないから種の作り置