龍潭譚
作者:泉鏡花 約25分で読めます
躑躅か丘 鎮守の社 かくれあそび おう魔が時 大沼 五位鷺 九ツ谺 渡船 ふるさと 千呪陀羅尼
躑躅か丘
日は午なり。あらら木のたらたら坂に樹の蔭もなし。寺の門、植木屋の庭、花屋の店など、坂下を挟みて町の入口にはあたれど、のぼるに従いて、ただ畑ばかりとなれり。番小屋めきたるもの小だかき処に見ゆ。谷には菜の花残りたり。路の右左、躑躅の花の紅なるが、見渡す方、見返る方、いまを盛なりき。ありくにつれて汗少しいでぬ。 空よく晴れて一点の雲もなく、風あたたかに野面を吹けり。 一人にては行くことなかれと、優しき姉上のいいたりしを、肯かで、しのびて来つ。おもしろきながめかな。山の上の方より一束の薪をかつぎたる漢おり来れり。眉太く、眼の細きが、向ざまに顱巻したる、額のあたり汗になりて、のしのしと近づきつつ、細き道をかたよけてわれを通せしが、ふりかえり、 「危ないぞ危ないぞ。」 といいずてに眦に皺を寄せてさっさっと行過ぎぬ。 見返ればハヤたらたらさがりに、その肩躑躅の花にかくれて、髪結いたる天窓のみ、やがて山蔭に見えずなりぬ。草がくれの径遠く、小川流るる谷間の畦道を、菅笠冠りたる婦人の、跣足にて鋤をば肩にし、小さき女の児の手をひきて彼方にゆく背姿ありしが、それも杉の樹立に入りたり。 行く方も躑躅なり。来し方も躑躅なり。山土のいろもあかく見えたる、あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思う時、わが居たる一株の躑躅のなかより、羽音たかく、虫のつと立ちて頬を掠めしが、かなたに飛びて、およそ五六尺隔てたる処に礫のありたるそのわきにとどまりぬ。羽をふるうさまも見えたり。手をあげて走りかかれば、ぱっとまた立ちあがりて、おなじ距離五六尺ばかりのところにとまりたり。そのまま小石を拾いあげて狙いうちし、石はそれぬ。虫はくるりと一ツまわりて、また旧のようにぞ居る。追いかくれば迅くもまた遁げぬ。遁ぐるが遠くには去らず、いつもおなじほどのあわいを置きてはキラキラとささやかなる羽ばたきして、鷹揚にその二すじの細き髯を上下にわづくりておし動かすぞいと憎さげなりける。 われは足踏して心いらてり。その居たるあとを踏みにじりて、 「畜生、畜生。」 と呟きざま、躍りかかりてハタと打ちし、拳はいたずらに土によごれぬ。 渠は一足先なる方に悠々と羽づくろいす。憎しと思う心を籠め
底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
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