袈裟と盛遠
作者:芥川龍之介 約13分で読めます
上
夜、盛遠が築土の外で、月魄を眺めながら、落葉を踏んで物思いに耽っている。
その独白
「もう月の出だな。いつもは月が出るのを待ちかねる己も、今日ばかりは明くなるのがそら恐しい。今までの己が一夜の中に失われて、明日からは人殺になり果てるのだと思うと、こうしていても、体が震えて来る。この両の手が血で赤くなった時を想像して見るが好い。その時の己は、己自身にとって、どのくらい呪わしいものに見えるだろう。それも己の憎む相手を殺すのだったら、己は何もこんなに心苦しい思いをしなくてもすんだのだが、己は今夜、己の憎んでいない男を殺さなければならない。 己はあの男を以前から見知っている。渡左衛門尉と云う名は、今度の事に就いて知ったのだが、男にしては柔しすぎる、色の白い顔を見覚えたのは、いつの事だかわからない。それが袈裟の夫だと云う事を知った時、己が一時嫉妬を感じたのは事実だった。しかしその嫉妬も今では己の心の上に何一つ痕跡を残さないで、綺麗に消え失せてしまっている。だから渡は己にとって、恋の仇とは云いながら、憎くもなければ、恨めしくもない。いや、むしろ、己はあの男に同情していると云っても、よいくらいだ。衣川の口から渡が袈裟を得るために、どれだけ心を労したかを聞いた時、己は現にあの男を可愛く思った事さえある。渡は袈裟を妻にしたい一心で、わざわざ歌の稽古までしたと云う事ではないか。己はあの生真面目な侍の作った恋歌を想像すると、知らず識らず微笑が唇に浮んで来る。しかしそれは何も、渡を嘲る微笑ではない。己はそうまでして、女に媚びるあの男をいじらしく思うのだ。あるいは己の愛している女に、それほどまでに媚びようとするあの男の熱情が、愛人たる己にある種の満足を与えてくれるからかも知れない。 しかしそう云えるほど、己は袈裟を愛しているだろうか。己と袈裟との間の恋愛は、今と昔との二つの時期に別れている。己は袈裟がまだ渡に縁づかない以前に、既に袈裟を愛していた。あるいは愛していると思っていた。が、これも今になって考えると、その時の己の心もちには不純なものも少くはない。己は袈裟に何を求めたのか、童貞だった頃の己は、明らかに袈裟の体を求めていた。もし多少の誇張を許すなら、己の袈裟に対する愛なるものも、実はこの欲望を美しくした、感傷的な心もちに過ぎなかった。それが証拠に
底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
入力:j.utiyama 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card75.html)