子供の病気 一游亭に

作者:芥川龍之介 約9分で読めます

子供の病気 一游亭にを縦書きで読む(Textfall)

夏目先生は書の幅を見ると、独り語のように「旭窓だね」と云った。落款はなるほど旭窓外史だった。自分は先生にこう云った。「旭窓は淡窓の孫でしょう。淡窓の子は何と云いましたかしら?」先生は即座に「夢窓だろう」と答えた。  ――すると急に目がさめた。蚊帳の中には次の間にともした電燈の光がさしこんでいた。妻は二つになる男の子のおむつを取り換えているらしかった。子供は勿論泣きつづけていた。自分はそちらに背を向けながら、もう一度眠りにはいろうとした。すると妻がこう云った。「いやよ。多加ちゃん。また病気になっちゃあ」自分は妻に声をかけた。「どうかしたのか?」「ええ、お腹が少し悪いようなんです」この子供は長男に比べると、何かに病気をし勝ちだった。それだけに不安も感じれば、反対にまた馴れっこのように等閑にする気味もないではなかった。「あした、Sさんに見て頂けよ」「ええ、今夜見て頂こうと思ったんですけれども」自分は子供の泣きやんだ後、もとのようにぐっすり寝入ってしまった。  翌朝目をさました時にも、夢のことははっきり覚えていた。淡窓は広瀬淡窓の気だった。しかし旭窓だの夢窓だのと云うのは全然架空の人物らしかった。そう云えば確か講釈師に南窓と云うのがあったなどと思った。しかし子供の病気のことは余り心にもかからなかった。それが多少気になり出したのはSさんから帰って来た妻の言葉を聞いた時だった。「やっぱり消化不良ですって。先生も後ほどいらっしゃいますって」妻は子供を横抱きにしたまま、怒ったようにものを云った。「熱は?」「七度六分ばかり、――ゆうべはちっともなかったんですけれども」自分は二階の書斎へこもり、毎日の仕事にとりかかった。仕事は不相変捗どらなかった。が、それは必ずしも子供の病気のせいばかりではなかった。その中に、庭木を鳴らしながら、蒸暑い雨が降り出した。自分は書きかけの小説を前に、何本も敷島へ火を移した。  Sさんは午前に一度、日の暮に一度診察に見えた。日の暮には多加志の洗腸をした。多加志は洗腸されながら、まじまじ電燈の火を眺めていた。洗腸の液はしばらくすると、淡黒い粘液をさらい出した。自分は病を見たように感じた。「どうでしょう? 先生」 「何、大したことはありません。ただ氷を絶やさずに十分頭を冷やして下さい。――ああ、それから余りおあやしにならんように」先生はそう云って帰って行った。

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底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
入力:j.utiyama 校正:かとうかおり
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card84.html)