私の父と母
作者:有島武郎 約6分で読めます
私の家は代々薩摩の国に住んでいたので、父は他の血を混えない純粋の薩摩人と言ってよい。私の眼から見ると、父の性格は非常に真正直な、また細心なある意味の執拗な性質をもっていた。そして外面的にはずいぶん冷淡に見える場合がないではなかったが、内部には恐ろしい熱情をもった男であった。この点は純粋の九州人に独得な所である。一時にある事に自分の注意を集中した場合に、ほとんど寝食を忘れてしまう。国事にでもあるいは自分の仕事にでも熱中すると、人と話をしていながら、相手の言うことが聞き取れないほど他を顧みないので、狂人のような状態に陥ったことは、私の知っているだけでも、少なくとも三度はあった。 父の教育からいえば、父の若い時代としては新しい教育を受けた方だが、その根柢をなしているものはやはり朱子学派の儒学であって、その影響からは終生脱することができなかった。しかしどこか独自なところがあって、平生の話の中にも、その着想の独創的なのに、我々は手を拍って驚くことがよくあった。晩年にはよく父は「自分が哲学を、自分の進むべき路として選んでおったなら、きっと纏まった仕事をしていたろう」と言っていた。健康は小さい時分にはたいへん弱い子で、これで育つだろうかと心配されたそうだが、私が知ってからは強壮で、身体こそ小さかったが、精力の強い、仕事の能く続けてできる体格であった。仕事に表わす精力は、我々子供たちを驚かすことがしばしばあったくらいである。芸術に対しては特に没頭したものがなかったので、鑑識力も発達してはいなかったが、見当違いの批評などをする時でも、父その人でなければ言われないような表現や言葉使いをした。父は私たちが芸術に携わることは極端に嫌って、ことに軽文学は極端に排斥した。私たちは父の目を掠めてそれを味わわなければならなかったのを記憶する。 父の生い立ちは非常に不幸であった。父の父、すなわち私たちの祖父に当たる人は、薩摩の中の小藩の士で、島津家から見れば陪臣であったが、その小藩に起こったお家騒動に捲き込まれて、琉球のあるところへ遠島された。それが父の七歳の時ぐらいで、それから十五か十六ぐらいまでは祖父の薫育に人となった。したがって小さい時から孤独で(父はその上一人子であった)ひとりで立っていかなければならなかったのと、父その人があまり正直であるため、しばしば人の欺くところとなった苦い経験が
底本:「惜しみなく愛は奪う」角川文庫、角川書店
入力:鈴木厚司
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/card205.html)