義血侠血
作者:泉鏡花 約56分で読めます
一
越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。 賃銭の廉きがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便りぬ。車夫はその不景気を馬車会社に怨みて、人と馬との軋轢ようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上相干さざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。 七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いを揃えんとて、奴はその門前に鈴を打ち振りつつ、 「馬車はいかがです。むちゃに廉くって、腕車よりお疾うござい。さあお乗んなさい。すぐに出ますよ」 甲走る声は鈴の音よりも高く、静かなる朝の街に響き渡れり。通りすがりの婀娜者は歩みを停めて、 「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。ふう、廉いね。その代わりおそいだろう」 沢庵を洗い立てたるように色揚げしたる編片の古帽子の下より、奴は猿眼を晃かして、 「ものは可試だ。まあお召しなすってください。腕車よりおそかったら代は戴きません」 かく言ううちも渠の手なる鈴は絶えず噪ぎぬ。 「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」 奴は昂然として、 「虚言と坊主の髪は、いったことはありません」 「なんだね、しゃらくさい」 微笑みつつ女子はかく言い捨てて乗り込みたり。 その年紀は二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉に力みありて、眼色にいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。 これはたして何者なるか。髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に※脂のみを点したり。服装は、将棊の駒を大形に散らしたる紺縮みの浴衣に、唐繻子と繻珍の昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色縮緬の蹴出しを微露し、素足に吾妻下駄、絹張りの日傘に更紗の小包みを持ち添えたり。 挙止侠にして、人を怯れざる気色は、世磨れ、場慣れて、一条縄の繋ぐべからざる魂を表わせり。想うに渠が雪のごとき膚には、剳青淋漓として、悪竜焔を吐くにあらざれば、寡なくも、その左の腕には、双枕に偕老の名や刻みたるべし。 馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。向者より待合所の縁に倚りて、一篇の書を繙ける二十四、五の壮佼あり。盲縞の腹掛け、股引きに汚れたる白小倉の背広を着て、ゴムの解れたる深靴を穿き、鍔広なる麦稈
底本:「高野聖」角川文庫、角川書店
入力:真先芳秋 校正:鈴木厚司
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/card363.html)