父帰る
作者:菊池寛 約13分で読めます
人物 黒田賢一郎 二十八歳 その弟 新二郎 二十三歳 その妹 おたね 二十歳 彼らの母 おたか 五十一歳 彼らの父 宗太郎 時 明治四十年頃 所 南海道の海岸にある小都会
情景 中流階級のつつましやかな家、六畳の間、正面に箪笥があって、その上に目覚時計が置いてある。前に長火鉢あり、薬缶から湯気が立っている。卓子台が出してある。賢一郎、役所から帰って和服に着替えたばかりと見え、寛いで新聞を読んでいる。母のおたかが縫物をしている。午後七時に近く戸外は闇し、十月の初め。
賢一郎 おたあさん、おたねはどこへ行ったの。 母 仕立物を届けに行った。 賢一郎 まだ仕立物をしとるの。もう人の家の仕事やこし、せんでもええのに。 母 そうやけど嫁入りの時に、一枚でも余計ええ着物を持って行きたいのだろうわい。 賢一郎 (新聞の裏を返しながら)この間いうとった口はどうなったの。 母 たねが、ちいと相手が気に入らんのだろうわい。向こうはくれくれいうてせがんどったんやけれどものう。 賢一郎 財産があるという人やけに、ええ口やがなあ。 母 けんど、一万や、二万の財産は使い出したら何の役にもたたんけえな。家でもおたあさんが来た時には公債や地所で、二、三万円はあったんやけど、お父さんが道楽して使い出したら、笹につけて振るごとしじゃ。 賢一郎 (不快なる記憶を呼び起したるごとく黙している)……。 母 私は自分で懲々しとるけに、たねは財産よりも人間のええ方へやろうと思うとる。財産がのうても、亭主の心掛がよかったら一生苦労せいで済むけにな。 賢一郎 財産があって、人間がよけりゃ、なおいいでしょう。 母 そんなことが望めるもんけ。おたねがなんぼ器量よしでも、家には金がないんやけにな。この頃のことやけに、少し支度をしても三百円や五百円はすぐかかるけにのう。 賢一郎 おたねも、お父さんのために子供の時ずいぶん苦労をしたんやけに、嫁入りの支度だけでもできるだけのことはしてやらないかん。私たちの貯金が千円になったら半分はあれにやってもええ。 母 そんなにせいでも、三百円かけてやったらええ。その後でお前にも嫁を貰うたらわしも一安心するんや。わしは亭主運が悪かったけど子供運はええいうて皆いうてくれる。お父さんに行かれた時はどうしようと思ったがのう……。 賢
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
入力:真先芳秋 校正:野口英司
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card502.html)