自転車日記

作者:夏目漱石 約14分で読めます

自転車日記を縦書きで読む(Textfall)

西暦一千九百二年秋忘月忘日白旗を寝室の窓に翻えして下宿の婆さんに降を乞うや否や、婆さんは二十貫目の体躯を三階の天辺まで運び上げにかかる、運び上げるというべきを上げにかかると申すは手間のかかるを形容せんためなり、階段を上ること無慮四十二級、途中にて休憩する事前後二回、時を費す事三分五セコンドの後この偉大なる婆さんの得意なるべき顔面が苦し気に戸口にヌッと出現する、あたり近所は狭苦しきばかり也、この会見の栄を肩身狭くも双肩に荷える余に向って婆さんは媾和条件の第一款として命令的に左のごとく申し渡した、

自転車に御乗んなさい

ああ悲いかなこの自転車事件たるや、余はついに婆さんの命に従って自転車に乗るべく否自転車より落るべく「ラヴェンダー・ヒル」へと参らざるべからざる不運に際会せり、監督兼教師は○○氏なり、悄然たる余を従えて自転車屋へと飛び込みたる彼はまず女乗の手頃なる奴を撰んでこれがよかろうと云う、その理由いかにと尋ぬるに初学入門の捷径はこれに限るよと降参人と見てとっていやに軽蔑した文句を並べる、不肖なりといえども軽少ながら鼻下に髯を蓄えたる男子に女の自転車で稽古をしろとは情ない、まあ落ちても善いから当り前の奴でやってみようと抗議を申し込む、もし採用されなかったら丈夫玉砕瓦全を恥ずとか何とか珍汾漢の気燄を吐こうと暗に下拵に黙っている、とそれならこれにしようと、いとも見苦しかりける男乗をぞあてがいける、思えらく能者筆を択ばず、どうせ落ちるのだから車の美醜などは構うものかと、あてがわれたる車を重そうに引張り出す、不平なるは力を出して上からウンと押して見るとギーと鳴る事なり、伏して惟れば関節が弛んで油気がなくなった老朽の自転車に万里の波濤を超えて遥々と逢いに来たようなものである、自転車屋には恩給年限がないのか知らんとちょっと不審を起してみる、思うにその年限は疾ッくの昔に来ていて今まで物置の隅に閑居静養を専らにした奴に違ない、計らざりき東洋の孤客に引きずり出され奔命に堪ずして悲鳴を上るに至っては自転車の末路また憐むべきものありだがせめては降参の腹癒にこの老骨をギューと云わしてやらんものをと乗らぬ先から当人はしきりに乗り気になる、然るにハンドルなるもの神経過敏にてこちらへ引けば股にぶつかり、向へ押しやると往来の真中へ馳け出そうとする、乗らぬ内からかくのごとく処置に窮するところを

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底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
入力:柴田卓治 校正:大野晋
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card768.html)