半七捕物帳 19 お照の父
作者:岡本綺堂 約26分で読めます
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一
「いつか向島でお約束をしたことがありましたっけね」 「お約束……。なんでしたっけ」と、半七老人は笑いながら首をかしげていた。 「そら、向島で河童と蛇の捕物の話。あれをきょう是非うかがいたいんです」 「河童……。ああ、なるほど。あなたはどうも覚えがいい。あれはもう去年のことでしたろう。しかも去年の桜どき――とんだ保名の物狂いですね。なにしろ、そう強情におぼえていられちゃあ、とてもかなわない。こうなれば、はい、はい、申し上げます、申し上げます。これじゃあどうも、あなたの方が十手を持っているようですね。はははははは。いや、冗談はおいて話しましょう。御承知の通り、両国の川開きは毎年五月の二十八日ときまっていたんですが、慶応の元年の五月には花火の催しがありませんでした。つまり世の中がそうぞうしくなったせいで、もうその頃から江戸も末になりましたよ」 老人は昔を偲び顔に話し出した。 「その二十八日の午過ぎでした。いつもの年ならわたくしも子分どもを連れて、両国界隈を見廻らなければならないんですが、今年は川開きも見あわせになったというので、まあ楽ができると思って神田の家に寝ころんでいますと、一人の若い女が駈け込んで来たんです」
女は女房のお仙をつかまえて何か泣きながら話しているらしかったが、やがてお仙に連れられて半七の枕もとへいざり込んで来た。起き直って見ると、それは柳橋のお照という芸妓の妹分で、お浪という今年十八の小綺麗な女であった。 「やあ、浦島が昼寝をしているところへ、乙姫さんが舞い込んで来たね」と、半七は薄ら眠いような眼をこすりながら笑った。「ことしは花火もお廃止だというじゃあねえか。どうも不景気だね。だんだんに世の中が悪くなるんだから仕方がねえ。それでもいつもの日と違うから、茶屋や船宿はちっとは忙がしかろう」 云いながらよく視ると、柳橋の若い芸妓は島田を式のごとく美しく結いあげていたが、顔には白粉のあともなかった。自体がすこし腫れ眼縁のまぶたをいよいよ泣き腫らしていた。花火はなくともきょうは川開きという書入れの物日に、彼女はふだん着の浴衣のままで家を飛び出して来たらしかった。 「どうしたんだ。姉さんと何か喧嘩でもしたのか。この頃はもう何か出来たという評判だから、それで姉さんといがみ合ったんじゃあねえか。そんな尻をおれの方へ持って来たって、辻番が違うぜ
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底本:「時代推理小説 半七捕物帳(二)」光文社文庫、光文社
入力:tatsuki 校正:山本奈津恵
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card1014.html)