義民甚兵衛
作者:菊池寛 約35分で読めます
人物 農夫 甚兵衛 二十九歳 甚しき跛者 その弟 甚吉 二十五歳 同 甚三 二十二歳 同 甚作 二十歳 甚兵衛の継母 おきん 五十歳前後 隣人 老婆およし 六十歳以上 庄屋 茂兵衛 村人 勘五郎 村人 藤作 一揆の首領 甲 同 乙 刑吏、村人、一揆、その他大勢 時 文政十一年十二月 所 讃岐国香川郡弦打村
第一幕
甚兵衛の家。藁葺きの、大なれども汚き百姓家。左に土間、土間につづいて台所の右は八畳の居間、畳も柱も黒く光っている。入口の柱には、金比羅大神宮の大なる札を貼っている。その札も、黒くくすぶっている。八畳の奥は部屋のあることを示している。家財道具はほとんどなし。 母屋の左に接近して、一棟の建物がある。画られて、牛小屋と納屋とになっている。牛はいない。 幕開く。甚作と甚三とが、家の前庭で、「前掻き」と称する網を繕っている。(方形の形をして柄が付いている。小溝の鮒や泥鰌を掬うに用いるもの)しばらくすると、母のおきんが、母屋と牛小屋との間から、大根を二本さげて出てくる。冬の日の黄昏近し。
おきん 畜生! また大根を二、三本盗みやがった! 作、今度見つけたら背骨の折れるほど、どやしつけてやれ! どこのどいつやろう。 甚作 新田の権が、昨日夕方裏の畑のところを、うろうろしていたけに、あいつかも知れんぞ。飢饉で増えたのは畑泥棒ばかりじゃ。 おきん 大根やって、今年は米の飯よりも大事じゃ。百本ばかりある大根が、冬中のおもな食物じゃけになあ。 甚三 お母、木津の藤兵衛の家じゃもう食物が尽きたけに、来年の籾種にまで、手を付けたというぞ。 おきん 藤兵衛が家でけ。ええ気味じゃ。藤兵衛の嬶め、俺がいつか小豆一升貸せいうて頼んだのに、貸せんというてはねつけやがったものな。
(おきん、台所へ入り水を汲んで大根を洗っている。隣家の老婆、およし入ってくる。ぼろぼろの着物を着て、瘠せはてている)
およし 甚作さんたち、何しているんでや。 甚作 これから、魚掬いに行くんじゃ。 およし お前の所じゃ、まだそななことができるから、ええな。わしの所じゃ、老人夫婦で泥鰌一匹捕ることやてできやせん。食べるものは、もう何にもなしになってしもうた。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
入力:真先芳秋 校正:大野晋
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card1051.html)