半七捕物帳 40 異人の首
作者:岡本綺堂 約27分で読めます
半七捕物帳 40 異人の首を縦書きで読む(Textfall)
一
文久元年三月十七日の夕六ツ頃であった。半七が用達から帰って来て、女房のお仙と差し向いで夕飯をくっていると、妹のお粂がたずねて来た。お粂は文字房という常磐津の師匠で、母と共に外神田の明神下に暮らしていることはすでに紹介した。 「いい陽気になりました」と、お粂はまだ白い歯をみせて笑いながら会釈した。「姉さん。今年はもうお花見に行って……」 「いいえ、どこへも……」と、お仙も笑いながら答えた。「なにしろ、内の人が忙がしいもんだから、あたしもやっぱり出る暇がなくってね」 「兄さんもまだ……」 「この御時節に、のんきなお花見なんぞしていられるものか。からだが二つあっても足りねえくらいだ」と、半七は云った。「お花見の手拭きや日傘をかつぎ込んで来ても、ことしは御免だよ」 「あら、気が早い。そんなことで来たんじゃないのよ」と、お粂は少しまじめになった。「兄さん、ゆうべの末広町の一件をもう知っているの」 「末広町……。なんだ、ぼやか」 「冗談じゃあない。ぼやぐらいをわざわざ御注進に駈けつけて来るもんですか。じゃあ、やっぱり知らないのね。燈台下暗しとか云って自分の縄張り内のことを……」 「ゆうべのことなら、もうおれの耳にはいっている筈だが……。ほんとうに何だ」と、半七も少しまじめになって向き直った。 「それを話す前に、実はね、兄さん。この二十一日に飛鳥山へお花見に行こうと思っているんです。なんだか世間がそうぞうしいから、いっそ今年はお見あわせにしようかと云っていたんですけれど、やっぱり若い衆たちが納まらないので、いつもの通り押し出すことになったんです。向島はこのごろ酔っ払いの浪人の素破抜きが多いというから、すこし遠くっても飛鳥山の方がよかろうというので、子供たちや何かで三十人ばかりは揃ったんですが、なるたけ一人でも多い方が景気がいいから、なんとか都合がつくなら姉さんにも……」 「なんだ、なんだ。お花見はいけねえと初めっから云っているじゃあねえか。それよりも、その末広町の一件というのは何だよ」 「だから、兄さん」と、お粂は甘えるように云った。 「お粂さんも如才がない」と、お仙は笑い出した。「お花見のお供と取っけえべえか」 「姉さんばかりでなく、誰か五、六人ぐらい誘って来て……。ね、よござんすか」 芸人には見得がある。とりわけて女の師匠は自分の花見の景気をつけるために、
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底本:「時代推理小説 半七捕物帳(三)」光文社文庫、光文社
入力:網迫 校正:藤田禎宏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card1065.html)