渾沌未分
作者:岡本かの子 約27分で読めます
小初は、跳ね込み台の櫓の上板に立ち上った。腕を額に翳して、空の雲気を見廻した。軽く矩形に擡げた右の上側はココア色に日焦けしている。腕の裏側から脇の下へかけては、さかなの背と腹との関係のように、急に白く柔くなって、何代も都会の土に住み一性分の水を呑んで系図を保った人間だけが持つ冴えて緻密な凄みと執拗な鞣性を含んでいる。やや下ぶくれで唇が小さく咲いて出たような天女型の美貌だが、額にかざした腕の陰影が顔の上半をかげらせ大きな尻下りの眼が少し野獣じみて光った。 額に翳した右の手先と、左の腰盤に当てた左の手首の釣合いが、いつも天候を気にしている職業人のみがする男型のポーズを小初にとらせた。中柄で肉の締っているこの女水泳教師の薄い水着下の腹輪の肉はまだ充分発達しない寂しさを見せてはいるが、腰の骨盤は蜂型にやや大きい。そこに母性的の威容と逞ましい闘志とを潜ましている。 蒼空は培養硝子を上から冠せたように張り切ったまま、温気を籠らせ、界隈一面の青蘆の洲はところどころ弱々しく戦いている。ほんの局部的な風である。大たい鬱結した暑気の天地だ。荒川放水路が北方から東南へ向けまず二筋になり、葛西川橋の下から一本の大幅の動きとなって、河口を海へ融かしている。 「何という判らない陽気だろう」 小初は呟いた。 五日後に挙行される遠泳会の晴雨が気遣われた。 西の方へ瞳を落すと鈍い焔が燻って来るように、都会の中央から市街の瓦屋根の氾濫が眼を襲って来る。それは砂町一丁目と上大島町の瓦斯タンクを堡塁のように清砂通りに沿う一線と八幡通りに沿う一線に主力を集め、おのおの三方へ不規則に蔓延している。近くの街の屋根瓦の重畳は、躍って押し寄せるように見えて、一々は動かない。そして、うるさいほど肩の数を聳かしている高層建築と大工場。灼熱した塵埃の空に幾百筋も赫く爛れ込んでいる煙突の煙。 小初は腰の左手を上へ挙げて、額に翳している右の腕に添え、眩しくないよう眼庇しを深くして、今更のように文化の燎原に立ち昇る晩夏の陽炎を見入って、深い溜息をした。 父の水泳場は父祖の代から隅田川岸に在った。それが都会の新文化の発展に追除けられ追除けられして竪川筋に移り、小名木川筋に移り、場末の横堀に移った。そしてとうとう砂村のこの材木置場の中に追い込まれた。転々した敗戦のあとが傷ましくずっと数えられる。だが移った途端に東京
底本:「ちくま日本文学全集 岡本かの子」筑摩書房
入力:土屋隆 校正:小林繁雄、門田裕志
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000076/card1278.html)