母子叙情
作者:岡本かの子 約2時間10分で読めます
かの女は、一足さきに玄関まえの庭に出て、主人逸作の出て来るのを待ち受けていた。 夕食ごろから静まりかけていた春のならいの激しい風は、もうぴったり納まって、ところどころ屑や葉を吹き溜めた箇所だけに、狼藉の痕を残している。十坪程の表庭の草木は、硝子箱の中の標本のように、くっきり茎目立って、一きわ明るい日暮れ前の光線に、形を截り出されている。 「まるで真空のような夕方だ」 それは夜の九時過ぎまでも明るい欧洲の夏の夕暮に似ていると、かの女はあたりを珍しがりながら、見廻している。 逸作は、なかなか出て来ない。外套を着て、帽子を冠ってから、あらためて厠へ行き直したり、忘れた持物を探しはじめたりするのが、彼の癖である。 洋行中でも変りはなかった。また例のが始まったと、彼女は苦笑しながら、靴の踵の踏み加減を試すために、御影石の敷石の上に踵を立てて、こちこち表門の方へ、五六歩あゆみ寄った。 門扉は、閂がかけてある。そして、その閂の上までも一面に、蜘蛛手形に蔦の枝が匍っている。扉は全面に陰っているので、今までは判らなかったが、今かの女が近寄ってみると、ぽちぽちと紅色の新芽が、無数に蔦の蔓から生えていた。それは爬虫類の掌のようでもあれば、吹きつけた火の粉のようでもある。 かの女は「まあ!」といって、身体は臆してうしろへ退いたが、眼は鋭く見詰め寄った。微妙なもの等の野性的な集団を見ることは、女の感覚には、気味の悪いところもあったが、しかし、芽というものが持つ小さい逞しいいのちは、かの女の愛感を牽いた。 「こんな腐った髪の毛のような蔓からも、やっぱり春になると、ちゃんと芽を出すのね」 かの女は、こんな当りまえのことを考えながら、思い切って指を出し、蔦の小さい芽の一つに触れると、どういうものか、すぐ、むす子のことを連想して、胸にくっくと込み上げる感情が、意識された。 かの女は、潜り門に近い洋館のポーチに片肘を凭せて、そのままむす子にかかわる問題を反芻する切ない楽しみに浸り込んだ。 洋画家志望のかの女のむす子は、もう、五年も巴里に行っている。五年前かの女が、主人逸作と洋行するとき、一緒に連れて行って、帰国の時そのまま残して来たものだ。 今日の昼も、かの女は、賢夫人で評判のある社交家の訪問を受け、話の序に、いろいろむす子の、巴里滞在について質問をうけた。 「おちいさいのに一人
底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
入力:阿部良子 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000076/card1282.html)