一本の花

作者:宮本百合子 約46分で読めます

一本の花を縦書きで読む(Textfall)

一

表玄関の受附に、人影がなかった。  朝子は、下駄箱へ自分の下駄を入れ、廊下を真直に歩き出した。その廊下はただ一条で、つき当りに外の景色が見えた。青草の茂ったこちら側の堤にある二本の太い桜の間に、水を隔てて古い石垣とその上に生えた松の樹とが歩き進むにつれ朝子の前にくっきりとして来る。草や石垣の上に九月末近い日光が照っているのが非常に秋らしい感じであった。そこから廊下を吹きぬける風がいかにも颯爽としているので、一しお日光の中に秋を感じる、そんな気持だ。朝子は右手の、窓にまだ簾を下げてある一室に入った。  ここも廊下と同じように白けた床の上に、大きな長卓子があった。書きかけの帯封が積んである場所に人はいず、がらんとした内で、たった一人矢崎が事務を執っていた。丸顔の、小造りな矢崎は、入って来た朝子を見ると別に頭を下げもせず、 「今日は――早いんですね」 と云った。 「ええ――」  赤インクの瓶やゴム糊、硯箱、そんなものが置いてある机の上へ袱紗包みを置き、朝子は立ったまま、 「校正まだよこしませんですか」 と矢崎に訊いた。 「さあ……どうですか、伊田君が受取ってるかも知れませんよ」  朝子は、ここで、機関雑誌の編輯をしているのであった。  朝子は、落ついたなかにどこか派手な感じを与える縞の袂の先を帯留に挾んで、埋草に使う切抜きを拵え始めた。  廊下の遠くから靴音を反響させて、伊田が戻って来た。朝子が来ているのを見て、彼は青年らしい顔を微かにあからめ、 「今日は」 といった。 「校正まだですか」 「来ません」 「使も」 「ええ」  朝子は、隅にある電話の前へ立ち、印刷所へ催促した。  再び机へ戻り、朝子は切抜きをつづけ、伊田は、厚く重ねた帯封の紙へ宛名を書き出した。  これは午後四時までの仕事で、それから後の伊田は、N大学の社会科の学生なのであった。  黒毛繻子の袋を袖口にはめ、筆記でもするように首を曲げて万年筆を動かしていた伊田は、やがて、 「ああ」  顔を擡げ、矢崎に向って尋ねた。 「先日断って来た分、こんなかから抜いてあるんでしょうか」  むっくりした片手で小さい算盤の端を押え、膨らんだ事務服の胸を顎で押えるようにし、何か勘定している矢崎は、聞えないのか返事をしなかった。伊田は暫く待っていたが、肩を聳やかし、また書き出した。  朝子は、新聞に西洋鋏

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底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
入力:柴田卓治 校正:松永正敏
出典:青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/000311/card1976.html)